兵法再考:戦わずして勝つは普遍的か

1 まずは復習

思いつきで書いていた文章が消えてしまったので改めて。

兵法談義といいますか、兵法は現代ビジネスの役に立つのか、第2弾です。実際問題として、第一弾は書くのを途中で止めてしまいましたので、その続き、といえば続きといえます。前の話を改めて議論しながら、話を進めていくことにしましょう。

さて。しばしば、兵法は現代ビジネスの役に立つといわれています。風林火山、なんて話は当たり前でして、兵法に記載された戦略の多くが、今なお、現代ビジネスに生かせるというわけです。第一弾で議論したのは、こうした兵法が本当に現代ビジネスにとって役に立つのか、ということでした。

当初書きたかった帰結は簡単でした。それは、兵法が現代ビジネスに役に立つのは、課長(社長)島耕作が現代ビジネスで役に立ったり、あるいは理論が、現代ビジネスで役に立つだろう(あるいは、立たないだろう)ということと同レベルの問題だろう、ということでした。

例えば、兵法には、山頂に布陣してはならない、という話が出てきます。有名な故事の一つ、泣いて馬謖を斬るが生まれたのは、馬謖が兵法の教えを無視して山頂に陣を張り、結果兵糧攻めにされて敗北を喫したことにありました。当時の兵法としては、とても価値のある主張だったといえるわけです。

にも関わらず、この主張を現代ビジネスに生かすことはそれほど容易ではありません。少なくとも、山頂に陣を張るなという主張を文字どおりに理解しようとするのならば、現代ビジネスにとってはほとんど意味のない、あるいはおかしな主張ということになるでしょう(本社は山の上に置くな?)。そこで、より現代的に解釈する必要があるのだとして、兵站の重要性や、ロジスティクスの議論として考えるのならば、兵法それ自体の問題というよりは、その兵法なる記述の解釈の問題こそが問われることになりそうです。

ようするに、繰り返して言えば、兵法が現代ビジネスにおいて役に立つのかどうかという問題は、我々が兵法をどう解釈し、理解するのかという問題に関わっているわけです。これは、なにも兵法という特定の対象に限った話でないことは自明です。あらゆる対象が、現代ビジネスにおいて役に立つのかどうかは、その対象と現代ビジネスをつないでいる我々の問題なのだということになるわけです。

2

ここからが、ようやく本題です。兵法においても、それから現代においても、よく知られた主張「戦わずして勝つ」について考えていきたいと思います。これは一見すると、兵法における主張が現代ビジネスにおいてもそのままあてはまる例のように思われます。実際、戦わずして勝つを持って上となすという主張は、ほぼそのまま、多くの企業の方向性に合致します。上策だといえるわけです。

そうしますと、「戦わずして勝つ」は、解釈という問題をそれほど強く意識する必要のない、普遍的でロバストな主張のように見えます。実際、そうした側面を全否定するつもりはありません。そのまま使ってもいい議論がありうるのは、むしろ兵法というテーゼが数多く存在している以上、当然のことでもあります。

とはいえ一方で、「戦わずして勝つ」という主張については、別途考えねばならない点があるようにも思います。それは、「勝つ」ということの意味です。個人的には、兵法における戦わずして勝つと、現代ビジネスにおける戦わずして勝つは、似ているようで根本的なところに違いがあるように思うのです。

すなわち、兵法は戦争の論理です。戦争に求められるのは、多くの場合は領土の拡大であり、もっといえば、国の統一です。兵法における戦わずして勝つとは、それゆえ、相手と切り結ぶことなく相手の領土を奪い、相手の国を滅ぼす、そういう論理としてあると考えられます。そこには、共存の論理はない、といえるでしょう。

これに対して、現代ビジネスもまた、市場シェアという領土を念頭に置きつつ、そのシェア拡大を目指します。ただ一方で、多くの企業は、シェア100%を志向しているようには見えませんし、あるいは、競合他社を滅ぼそう、という意図を持って競争しているようには感じられません。市場から退出させようという試みはあるかもしれませんが、それもそんなに多くないように思います。

勝つということをめぐる、兵法と現代ビジネスの姿勢の違いは、当然、戦わずして勝つというテーゼの内実にも影響を及ぼします。兵法が言う戦わずして勝つとは、兵を用いることなく、武力を用いることなく相手を滅ぼす、ということのはずです。対して、現代ビジネスが標榜する戦わずして勝つとは、同じスペックや戦略で勝負することなく、シェアを確保するというようなニュアンスになるのではないでしょうか。

こうなると、「戦わずして」と「勝つ」の結びつきも異なってきます。兵法では、「戦わずして」「勝てれば」とても良い。これに対して、現代ビジネスでは、「戦わずして」しか「勝てない」。なぜならば、現代ビジネスにおいて「戦う」ことは、お互いを疲弊させ、価格競争にしかならないと考えられているからです。こうして、現代ビジネスにおける勝つとは、相手を滅ぼすという直接的な問題ではなく、自身のシェアを獲得するという、より非競合志向の視点を持ち合わせているといえるわけです。

3

ここからが、ようやく本題です。兵法においても、それから現代においても、よく知られた主張「戦わずして勝つ」について考えていきたいと思います。これは一見すると、兵法における主張が現代ビジネスにおいてもそのままあてはまる例のように思われます。実際、戦わずして勝つを持って上となすという主張は、ほぼそのまま、多くの企業の方向性に合致します。上策だといえるわけです。

そうしますと、「戦わずして勝つ」は、解釈という問題をそれほど強く意識する必要のない、普遍的でロバストな主張のように見えます。実際、そうした側面を全否定するつもりはありません。そのまま使ってもいい議論がありうるのは、むしろ兵法というテーゼが数多く存在している以上、当然のことでもあります。

とはいえ一方で、「戦わずして勝つ」という主張については、別途考えねばならない点があるようにも思います。それは、「勝つ」ということの意味です。個人的には、兵法における戦わずして勝つと、現代ビジネスにおける戦わずして勝つは、似ているようで根本的なところに違いがあるように思うのです。

すなわち、兵法は戦争の論理です。戦争に求められるのは、多くの場合は領土の拡大であり、もっといえば、国の統一です。兵法における戦わずして勝つとは、それゆえ、相手と切り結ぶことなく相手の領土を奪い、相手の国を滅ぼす、そういう論理としてあると考えられます。そこには、共存の論理はない、といえるでしょう。

これに対して、現代ビジネスもまた、市場シェアという領土を念頭に置きつつ、そのシェア拡大を目指します。ただ一方で、多くの企業は、シェア100%を志向しているようには見えませんし、あるいは、競合他社を滅ぼそう、という意図を持って競争しているようには感じられません。市場から退出させようという試みはあるかもしれませんが、それもそんなに多くないように思います。

勝つということをめぐる、兵法と現代ビジネスの姿勢の違いは、当然、戦わずして勝つというテーゼの内実にも影響を及ぼします。兵法が言う戦わずして勝つとは、兵を用いることなく、武力を用いることなく相手を滅ぼす、ということのはずです。対して、現代ビジネスが標榜する戦わずして勝つとは、同じスペックや戦略で勝負することなく、シェアを確保するというようなニュアンスになるのではないでしょうか。

こうなると、「戦わずして」と「勝つ」の結びつきも異なってきます。兵法では、「戦わずして」「勝てれば」とても良い。これに対して、現代ビジネスでは、「戦わずして」しか「勝てない」。なぜならば、現代ビジネスにおいて「戦う」ことは、お互いを疲弊させ、価格競争にしかならないと考えられているからです。こうして、現代ビジネスにおける勝つとは、相手を滅ぼすという直接的な問題ではなく、自身のシェアを獲得するという、より非競合志向の視点を持ち合わせているといえるわけです。

4

最後の確認へ進む前に、ここまでの議論をちょっとだけ確認(文字数稼ぎ)。まず最初の問題意識は、兵法の現代ビジネスへの適用可能性です。これについては、正直なところ、当たり前の程度に適用可能だろうということでした。その上で、もっとも現代ビジネスに通用するように見える「戦わずして勝つ」について、検討することにしました。その結果、一見両方で適用可能な「戦わずして勝つ」についても、その意味において大きな違いがあることが見えてきました。

第一に、現代ビジネスにおける戦わずして勝つとは、別に相手を滅ぼしてしまうという意味では用いられない。そして第二に、勝つことで得られる「領土」について、兵法は有限であることを前提とするのに対し、現代ビジネスでは市場の非有限性が認識されているというわけでした。

市場の創造可能性こそ、現代ビジネスにおける「戦わずして勝つ」の本質であろうと思います。より正確に言えば、「勝つ」ことによって得られる市場は個別企業において創造可能である以上、実は、現代ビジネスにおいて「戦わずして」は蛇足でもあります。それでもなお、今も「戦わずして勝つ」ことが求められるのは、現代ビジネスが、自らの可能性を小さく閉じる傾向にあることを示唆しているのではないでしょうか。

兵法と同じ枠組みで考える限り、現代ビジネスにおける「戦わずして勝つ」は、結局有市場のシェア争いに終始することになります。それは、現代ビジネスにおいてはもったいない。そうではなく、現代ビジネスにおける「勝つ」とは、本来的に市場の無限性を前提とするのであって、それは自ずから直接的な競合のいない活動としてみなされなくてはならないわけです。

「差別化」、競争戦略の定石です。それは、まさに戦わずして勝つことを目的としているように見えるでしょう。けれども、その認識は正しくありません。差別化することが勝つことの条件であると見なされるのならば、それは先に見たように、本末転倒しているからです。現代ビジネスにおいて勝つとは、すなわち市場を創造するとは、自ずから戦わない選択としてしかありえないのです。

ならばと、デジタルカメラを例にとってみて、結局は軽さで勝負するのか、それとも機能で勝負するのか、これが差別化であり、シェア争いの現実なのだと言ってみることもできるようにみえます。しかしこれとて、シェア争いが成立するのは、同じニーズ、同じ顧客の存在を前提とする限りにおいてです。軽さを求めるニーズと、機能を求めるニーズがそれぞれ独立に存在するのだとすれば(別に関係しても同じことのように見えますが)、それは異なった市場をターゲットとしているのであり、やはりそれは、戦っているわけではないのです。

デジタルカメラというくくりを与えることによって、戦いが顕在化する。けれどもそれは、あくまで何らかのくくりを与えることで可能になるのであって、格段、そのくくりが実在しているというわけではないと思います。結局、戦わずして勝つとは、本来的には兵法に固有の方法であって現代ビジネスにそのまま応用すべき方法ではない、ように思われます。  ちょっと最後つながりが悪くなってきたので、、、まあこのあたりで。。。


2010年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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