物質性と身体性

物質性と身体性は、同じことの二つの側であるように思われる。それは、物質性がまずあるというわけでも、身体性がまずあるというわけでも、いわんやそれらが相見えて何らかの評価、あるいは創発が起こるというわけでもない。これらはいずれも錯覚である。

ゴムボールを握ることを想像せよ。手に加えられる圧力に応じてゴムボールは歪むだろう。ゴムボールの圧力も増大し、手には反発力が加わる。さらに手に圧力を加えれば、さらにゴムボールは歪む。そして一定の状態を超えては、もはやゴムボールを歪めることはできなくなる。ゴムボールの限界にして筋力の限界ということになる。

このとき感じられるであろう筋力の限界、これが身体性であり、相反する限界として用意されるゴムボールの限界が物質性なのではないだろうか。それゆえ、身体性と物質性は、同じことの二つの側、求心と遠心として設定される。同様の例示は他にも考えられるだろう。大地を蹴って走るという場合、あるいは衣服を着るという場合も同様である。特に衣服を着るというのならば、そこでは限界としての圧力が問題とされるのではなく、むしろ圧力をかけずに柔らかく触れることになるだろう。それが身体性であり、物質性となる。あるいは尖った石という場合、そこには痛みを伴う身体性が限界として得られることになる。それは、石が尖っているがゆえに、痛みを感じるのではない。尖っているということと痛いということは同時であり、同義なのである。

しかし尖っているということと痛みは分割されて実体として固定される。身体性を自らの体の内に取り込みなおせば、それはまさに物体としての身体ということになろう。同様に、物質性を外部の対象に埋め込んで捉えなおせば、それは物体としての物質ということになる。どちらも、身体と物質がまずあって、それぞれになんらかの固有性があるというわけではない。これらはいずれも、その接点において、圧力によって遡及される実体化された極限の類である。

いうまでもなく、それゆえ身体性と物質性は相互に依存している。例えば、ゴムボールを握る者が極めて力の強いというのならばゴムボールの歪みはさらに大きくなり、場合によっては、握りつぶされてしまうかもしれない。そこでは身体性も物資性も異なることになるし、ゴムボールの物質性も失われる。あるいは、ゴムボールを投げようとして握る場合と、ゴムボールを潰そうとして握る場合とでは、当然、物質性と身体性は異なるはずである。

こうした身体性と物質性の理解は、例えば性差を捉える際の身体性という概念と相いれないようにも思われる。それはまさに固有性を含みこんでいるようにみえる。だが、おそらくそうではないのだろう。性差もまた、異なる身体(それは当然物質性である)との関係においてのみ見出されるはずだからである。それは潜在しうる条件であり、物理的に固有というわけではない。

身体性と物質性をこのように理解するのならば、当然、次の問題はメディアということになる。身体性と物質性を引き離し、距離を可能にする概念がメディアだからである。メディアの介在によって、身体性と物質性は直接的な接続から引き離されることになる。メディアを介しても、身体性と物質性は生まれるのだろうか。それは、メディアの物質性という問題を新たに考慮させるだけなのかもしれない。かつてのエーテルのように。しかし一方で、メディアの固有性もまた生じることになるのだとすれば、もう少し異なった議論が必要になるようにも思われる。


2010年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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