そもそも論への対処

1 むかつくのはなぜか(笑
ディスカッションのさまざまな状況で、「そもそも、、、」と言い出すことが可能です。「そもそも、問題の設定がおかしいんじゃないのか」「そもそも、違うテーマを取り扱った方がいいのではないのか」「そもそも、誰がこんなことを言い始めたのか」。バリエーションもさまざまですが、基本的な方向性は同じです。現状与えられている議論の前提を問い直そうというわけですね。

よくある話でありながら、一方で、「そもそも、、、」と言われるとちょっとむかつきます(一般的に?いや、僕はそうでもないけれど、、、)。特に自分がディスカッションの進行役などをしている場合には、あるいは自分が何か論文などを報告している場合には、そもそも、と言われた段階で、なんというかやれやれと思うわけです。

なぜでしょう。まあそう思わない方もいると思いますし、積極的に「そもそも」というのが好きな方もいますので、なぜと言われてもどうしようもないかもしれませんが、少し考えてみようかなと。その上で、「そもそも」と言われた場合の大人な対処の仕方でも考えてみようかと思うわけです。

まず、なぜむかつくのか。理由は、そもそも論の強さと簡単さというアンビバレントな性格にあると思います。第一に、そもそも論は比類なき強さを誇ります。ほぼあらゆるディスカッション状況において、「そもそも」と切り出せば、負けることがありません。逆にいえば、相手とのディベートに困ったら、「そもそも」と言えばいいわけです。相手の得意なフィールドを無効化し、無視するという論法。これはまあむかつきますな。。。もちろん、泣きながら、そもそも、、、と言い始めたら負け惜しみになりますので、言い方は考えないといけませんが(笑

それゆえ一方で、そもそも論はだれでも使える簡単な方法です。子どもだって言えるわけですね。現状繰り広げられている議論の意味がわからなくとも、あるいはわからないということを逆手にとって、そんなことよりももっと別の大事なことがあるのではというわけですから。

とすれば、そもそも、と言われてむかつく理由はとりあえず見えてきます。強さと簡単さ、簡単でだれでも使えるのにめちゃくちゃ強い、となれば、言われた方はちょっと嫌な気にもなるというわけです。気をつけないといけないですね。

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とはいえ、そもそも、と問い直しをすること自体は大事な作業です。ディスカッションが煮詰まった時に、そもそも、といってもらえることは、新たな可能性を開くことになります。そうした可能性を失うことなしに、一方で、お手軽で使われてしまってむかつくことにどう対処すればよいのか。ちょっと考えておいてもいいかと思います。

基本的に、まずは「なぜ」と聞き返すのがいいでしょう。「そもそも、議論の立て方がおかしいんじゃないのか」「なぜ?」、「そもそも、違うテーマの方がいいのでは」「なぜ?」、「そもそも、誰が言い始めたのか」「なぜ?(そんなことを聞くの?と続けば上の議論と同じ展開になりますね)」。

なぜ、「なぜ」と聞き返すのがいいのか。それはそもそもと切り出した相手に対して、その「そもそも」が意味のあるそもそもなのか、単なるお手軽そもそもなのかを説明してもらうことができるからです。「意味あるそもそも」と「お手軽そもそも」の違いは、そもそもを内在的論理の帰結として導けるかどうかにあります。

先に見たように、そもそもと言われてむかつく理由の一つは、これまでの議論を無効化・無視して、違う方向に進もうという志向性にあります。サッカーの話をしているときに、いやいやそんなことより野球の話をしようと言われる感じですね。サッカーという内側の話を無効化・無視して、野球という外側に議論がふられる時にやれやれと思うと。

ここでは、内側の議論と外側の議論が分断されていることが問題です。確かに、本来的に内側の議論と外側の議論は無関係なものです。サッカーの話と野球の話はそもそも関係ない。これが当事者にとってはむかつく理由でもあるわけですので、ここをロジックとして結んであげなくてはいけない。そうでないのならば、それはお手軽そもそもということになるはずです。

話を続ければ、なぜサッカーではなくて、野球の話をしなくてはならないのかということになります。あるいは、そもそも議論の前提がおかしいんじゃない、というのならば、なぜおかしいのかをロジックとしてつなぐことが大事になると。ここで、いやいやおれの直観、とか言ってはダメです。あくまで説明可能でないとむかつきは消えません。

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内側の議論から外側で向かう論理、これは、内破の論理として考えることができます。もちろん、そもそも議論の前提がおかしいと主張する場合、外在的な理由をもって議論を展開することも可能です。ただしこの場合には、外側へ向かう理由を外側の理由を持って説明するわけですので、それ自体は自明というか、負け惜しみの形をとることになります。たぶんこれが「お手軽そもそも」ですね。

それゆえに、外側に向かう必然性を、内側の論理を破たんさせることで導かなくてはならない。ありうるのは、内側の議論が何らかの矛盾を内包している、あるいは帰結してしまうということを証明することで、内側の論理を破たんさせ、その前提へと遡ることを導く方法です。ちょっとかっこいい。しかもたぶん、多くの論理体系はそれ自体が矛盾を内包して成立しているはずですので、内破そのものは、可能なはず。

「そもそも」という相手に対して、「なぜ」と問い直すということは、とりもなおさず、この内破の論理を説明してもらうということにほかなりません。もし相手がこの説明に失敗したのならば、それは「お手軽そもそも」ですので、柔らかく「そうですね、大事な問題ですね(–)」というか、ストレートに、「外在的な問題ですね」と言ってしまいましょう。

そうではなく、内破の論理を説明された場合、その場合は「ありがとうございます!」と言わねばなりません。第一に、内破の論理を説明された場合には、これまでの議論が問題をはらんでいたことが明らかになります。しかも、特に論理の帰結として矛盾が示された場合には、議論が進めば進むほど、失敗に近づいていくという徒労の道が証明されたというわけですので、危うく難を逃れたわけです。

そして第二に、内破の論理は、外側へ至るための必然的ルートを示すことになります。これは、外在的要因を提示するもっとも強いルートでもあります。というのは、外在的要因を持って強制的にそもそも論を展開する場合には、そうした外在的要因自体が、そもそもそれ以外にも問題があるのでは、、、?と言われる可能性に開かれています。しかし、内側の破たんをきっかけにして提示される外部は、もちろんそもそも論に開かれているとはいえ、一歩強い論理構成となるわけです。

最後に第三におまけとして、内破の論理は、それ自体で論文を書けます(笑)。その論理をそのまま論文として書けば良いわけですから、これは願ったりかなったり。しかもその論理は、これまでの先行研究のすべてを相対化し、まったく新しい方向性を開くというわけですから、これはすごい。「ありがとうございます!!」とますますいわなくてはならないわけです。

ということで、まあこうした議論自体、そもそもどうでもいいわけですが、、、羽田空港のロビーで暇にまかせて思いついたのでさくっと書いてみました(笑


2010年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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