反復、差異、同一性

われわれは、同一性に抗う必要がある。なぜならば、同一性とは、それ自体として成立しえない一種の錯覚だからである。われわれが焦点を当てるべきなのは、同一性を生み出す論理であり、同時に、差異を生み出す論理である。

いうまでもなく、あるものが同一性を得るためには、それが同一でなければならない。わわわれ人とて例外ではない。あるいは、われわれ人こそ、例外ではない。現存在は、自らに言及し、自らの存在を問わねばならないのであった。それは、「命がけの跳躍」と呼びうる危険に、つねに‐すでに自らをさらさねばならないということを意味している。すなわち、同一であるためには、自らを分割し、再び統合してみせねばならない。

平たく言えば、AがAとして同定されるためには、「AはAである」とならねばならない。だがこのとき、すでにしてAは、主語としての「A」と、術語としての「A」に分割されている。トートロジーの論理の内が問題とされる。同じAでつながれていようとも、それは同じものとは限らないのである。

それゆえ、Aの同一性はそれ自体として成立しているわけではない。「A」の同一性は、「A」を分割し、反復した結果なのである。そしてさらに、「A」の同一性は、「A」を分割し、反復するというほとんど無限の差異にさらされた結果なのである。「命がけの跳躍」とは、Aは‐Aであるを結ぶ無限の距離、失敗の可能性に他ならない。それこそ差異、正確に言えば存在論的差異である。

ここにおいて、「A」の存立根拠は、「A」が「A」であったからという同一性と同時に、「A」は「A」ではなかったかもしれないからという差異によって支えられることになる。同一性は、反復の結果であり、可能態や潜在態としての差異に支えられてのみ成立する。

差異が可能態や潜在態としてAを支えるのは、差異の存在もまた結果的だからである。それは同一性に先立つ(おそらく、超越論的にして先行的といえる)としても、原理的に差異が見出されるのは、同一性の獲得後にならざるを得ない。反復それ自体は、無時間なのだろう。

したがって、反復可能性は、永続性のことではない。むしろ両者は対立的である。永続性は同一性の別の呼び名にすぎない。永続しているようにみえるのは、分割され、統合され、反復を繰り返し続けるその結果なのである。


2010年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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