後づけや結果論の何が問題なのか

ありそうな一風景

上司に飲みにいこうと誘われて連れてこられた新橋の居酒屋。別に嫌いな相手という訳でもないので、芸能界の話でもしながらお酒が進む。宴もたけなわ、だんだんと仕事関係の悪口になっていく。上司が言う。「だからさぁ、俺はあのプロジェクトはうまくいかないと思っていたんだよ。そりゃぁ、その場では大人だから言わないけどさ、あいつにできる訳ないじゃん。」「そうですよね、僕も駄目だろうと思ってました。まあ、今更言ってもしょうがないですけどね。」「・・・そうだなぁ、結果論かな。」「・・・ですねぇ。」

学会の一風景。報告者が事例分析を通じて、インプリケーションを示そうとしている。質疑でおもむろにどこかの先生が立ち上がる。「大変興味深いご報告でした。一つ質問なのですが、今回の分析は後づけにすぎないのではないでしょうか。」少し沈黙が流れ、報告者が答える。「そうですね、単独事例だったということもあり、説明能力は弱いと思います。今後の課題です。」

?結果論。それって、後づけですよね?と言われてしまうと、何となく話が終わってしまう。いやいや違いますよと言えば話が進むのかもしれないけれど、まあそうだねぇ、しょうがないねぇと言ってしまうことが多いように思う。そもそも、いやいや違いますよと言ったとき、一体どういう話をすれば、違う話をしたことになるのだろうか。話も少しすり替わり、だいたいうやむやな感じになる。

しかしなぜだろう。結果論ですよねぇといわれて、何となくばつが悪くなってしまう感覚。あるいはそれって後づけじゃないの、といわれてえっーと、、、と思ってしまうこの感覚。その背後にあるものを考えてみたいというのが今回の主題である。

僕自身も、それって後づけだよねというし、それって結果論だよね、という。それはたいがい批判的な意味を持っていると思う。けれども、どうしてそれが批判的でありうるのかという点について考えてみると、だんだんとよくわからなくなっていく気がする。結果論上等、後づけ上等とはすぐにはいえないけれど、もう少しちゃんと考えておいた方が良いと思った次第である。

問題は何か

結果論ですよね、後づけですね。という主張はどこから来ているのか。そしてどういう根拠を持って、強い力を持つように感じてしまうのか。まず一番に考えられそうなのは、純粋に後からであればなんとでも言えますよね、という意味である。

これは結果論や後づけの最もシンプルな意味のようにも思われるが、しかし同時に、シンプルにおかしな話である。結果論や後づけだからといって、なんとでも言えるはずはない。納得してもらえることを言うためには、一定の範囲が想定されることになるはずである。

対話としての競争についても、カシオとシャープの競争が起った後でならば、なんとでも言えるかと言えばそんなことはないだろう。カシオとシャープの競争は、本当はなかったのだということにはあまり意味がなさそうであるし、それはカシオとシャープの競争ではなく、実は800年前の源氏と平家の争いとパラレルなのだといわれても、なんだかよくわからない。(もちろん、それを目的として説得にあたることもできる。)

生存バイアスということなのかもしれない。うまくいった(仮説にかなう)事例を分析する際には、うまくいかなかった事例の存在を捨象してしまいがちである。その結果、分析結果に偏りがでる。しかしこれにしても、今回の論文の主旨に合っていないように思う。淘汰プロセスとは異なる競争観が少なくともカシオとシャープの事例から見いだせそうだということ自体は揺らがないからである。たとえそれが例外的であったとしても、事態は何ら変わらない。むしろ、競争戦略論としては、差別化の要因となりうる重要な個別性を発見したということになるかもしれない。(この辺りの話については、別途議論が必要ではあるが、一般性のある競争戦略など、抽象的すぎて意味がないか、さもなければ条件特定で循環していたり矛盾しているだけである。)

カシオとシャープの競争プロセスを見ることで、少し変わった競争を見ることができる。それは、後から研究者が構築した視点かもしれないが、そうであるということについて、一体どういう問題が存在するのか、やはりよくわからない。問題などどこにもないのではないだろうか。

結果論や後づけは、後からいうということに対するネガティブな感覚につきまとわれている。逆に言えば、後からではなく、事態が引き起こされる前に、何かを言わねばならないというわけである。確かに、このこと自体は正しい。前もって予測し、問題そのものを回避するということは、企業にとってはもちろん、我々の日常において重要なことである。

  だが、このことは、予測を前提にしなければ、結果論や後づけであることについて、なんら問題は生じないことを示唆しているように思われる。例えば、だったら先にいえよ、という結果論批判の定番を考えてみても該当しそうである。先にいう必要のない話であれば、結果論でも後づけでもいいわけだ。 先の居酒屋の話であれば、だったら先にいえよ、ということができそうである。だからこそ、彼らは口を閉じる。けれども同時に、やっぱり彼ではダメであり、どこが具体的にダメなのかを問うことは、無意味ではない。生存バイアスに気をつける必要はあるが。
  もう少し典型的な結果論を考えてみよう。巨人対阪神の試合があるとして、試合の前に結果を予想する。理由も考える。これは問題ない。これに対して、試合が終わって結果が確定した後で、さらにはその結果を知った後で、結果を予想?する。理由も考える。これは結果論になりそうだ。  さて、後者の問題はなんだろうか。結果を知ってから、どちらが勝ったかをいうわけなので、正解率は100パーセント。ずるい。理由のほうも、なんとなく知識が増えていそうでずるい。先にいえよ、といいたくなる。 ただ、これですら、どうして先に言わねばならないのか、はわからない(賭けていた、という条件でも付けるのならばもちろん話は別になる)。結局、予測が大事という話に帰っていきそうな気がする。
  予測が重要なことは別に否定しないが、予測を重視することで、結果の分析や評価の意味を弱めてしまうとすれば問題である。特に、予測は基本的に裏切られるものだ。常に想定外が生じる余地がある。結果の分析や評価は、予測の限界を乗り越えるために重要な意味を持っている。
あんまり考えるほどのことはない
  ということで、結果論や後づけ自体に問題があるようにはやはり見えない。問題は、今までの話からいくと、説明の仕方にそもそも無理があったり、証明が不十分というところにありそうである。それは結果論や後づけに限らない一般的な問題であろう。さもなくば、予測がまずもって求められているという条件が問題になりそうだ。

  もっと根本的な話にまで至るのかと思ったけれど、そうでもなかったようである。何か見逃した感もあるが、思っていた話にまで展開することがなかった。最初のイメージでは、結果論に対する抵抗感は、つねに-すでに先行する<世界>の在り方に対する我々の抵抗感かなと思ったのだけど、、、そんなに難しい話をする必要はないのかもしれない。  最後にもう一問。飲み会に行った翌日、二日酔いで目が覚める。あー、上司とあんなに飲まなければよかった。禁酒しようと思う。これは結果論だろうか。問題はあるだろうか。

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2011年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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