3つのCMから ReBORN/オトナグリコ/消臭力

【CMの感想でも書いてみます】
この数年、マーケティング協会の研究会(eマーケティング研究会)に参加させてもらうこともあり、少し広告に詳しくなったように思います。カンヌで評価された広告の論理とか、とても面白い。そんなわけで、というわけでもないのですが、最近テレビCMをみて思ったりしたことをまとめてみようと思った次第です。

先日テレビでみたというのは、トヨタのReBORN編というコンセプトでくくられたテレビCMでした。これは今のところ2つのバージョンがあり、一つはドラえもんをベースに、のび太たちの子供時代と大人時代を組み合わせたもの、もう一つはキムタクと北野武を起用し、それぞれに織田信長と豊臣秀吉の生まれ変わりという設定を与えたものです。この2つのパターンをどちらもみたのですが、これは何だろうと思ったのが今回のきっかけです。
正直なところ、どちらもおーすごい、という感じがせず、もやもやしたという感覚だけが残りました。その感覚を引き起こすこと自体が目的なのかもしれませんし、この後の展開が用意されているのかもしれない。とはいえ、まずは素直に中身をみていきましょう。

まずは、キムタク−たけしCM。最初にみて思うのは、時代順から言えば、たけしが信長で、キムタクが秀吉のはず。どうして逆なのかと思いました。これはもう少し考えてみて、それぞれが死んだ年齢、で再設定されていると考えればわからないことはない。信長の方が若くして死んでいますから、その意味ではキムタクでもいいが、それでもやっぱり現実におけるキムタク−たけしのインパクトが強すぎるので、設定をそのまま飲み込めない。このあたりは、まあ、キムタクが草履温めてみたり、敬語でしゃべったりしていますから、作り手としても、フィクションと現実を混ぜ合わせようとしてるともいえる。

で、彼らが一緒にドライブに行く。宇都宮で餃子を食べる(復興支援とか、祖いうことかな)。おもむろに、たけし=秀吉が、餃子のように、この国にも一つにまとめるための皮が必要なんだよ、という。正直、意味が取れない。皮になるということが、どういう比喩なのか。それが、秀吉とどう関わるのか。リーダーが必要ということなのか?黒子という意味なのか?たけしとどう関わるのか。そして、トヨタとどうか関わるのか。自分たちがリーダーであるということを主張しているのだろうか。この点は、最初のCMの段階で、キムタクがどうして自分たちが2011年の今に生まれ変わったのだろうかと問うているところとも関係しますが、僕たちは過去の英雄なんて、待っていませんよといいたい(『ロマンシング・サガ2』でそういえば、「彼らは来た、だが・・」)

いうまでもなく、rebornという言葉自体が、トヨタ、日本、そして過去の英雄の転生をつないでいる。これ自体は分かりやすい話であり、トヨタも生まれ変わりたいと思っており、日本も同様であり、その意味で英雄の生まれ変わりもそこに重ね合わせられ、さらに彼ら英雄が企業や国を再生することが期待されている。だが、これらの組み合わせはそうじてCMの中ではちぐはぐであり、もっといえば、転生した英雄に改革を期待するという論理が垣間見えるとき、正直、それ自体がrebornされるべき古いコンセプトであるように感じる(そういえば、先日eマーケティング研究会でご講演いただいたエステーの鹿毛さんによれば、コンセプトとはもともと妊娠を意味するという。エステーの興味深いCMについては、3つ目で紹介する)。

【ドラえもんの場合】
ドラえもんも、相当に違和感を感じる。設定そのものはわかりやすく、面白さもある。のび太らしいなぁとか、ジャイアンらしいなぁと思ったりすることはできる。

だが、展開は理解しにくい。例えば、僕がみた範囲で言えば、そこでは子供時代ののび太が将来の夢を聞かれ、考えあぐねて「僕は将来スポーツカーに乗って静ちゃんとドライブに行きたい」という。これ自体は、子供の頃の可愛らしい夢の一つとして理解できる。この主張を受けて、大人時代では実際にのび太が静ちゃんとBBQへ出かける。しかし車を持たないのび太は、電車や徒歩で苦労しながら現地に向かうことになり、結局、静ちゃんは時間がなくなってスネ夫の車に乗って帰宅する羽目になる。帰宅したのび太はドラえもんに車が欲しいとねだるが、君は免許がないから駄目だよ、とドラえもんにつれなくされてしまう。

免許を取ろう、車に乗ろう、そして彼女を快適なデートに連れて行こう。直感的に理解できるこの主張は、もしこれが本当にこのCMの主張であるとするのならば、およそ納得できない。なによりも、のび太が大人になるまでに、時代は大きく変わったのだということがあまりに無視されている。
のび太が子供の頃に夢見た世界は、少なくともそのままの形で実現されていない。免許を取り、車に乗り、彼女とデートに行くという考え方が、すでに現代では古いと言わざるをえず、さらにいえば、それは単に環境破壊とさえ考えられるようになっている。むしろ現代に生きる僕たちは、このCMをみて、免許などとる必要はない。電車で出かけたのび太の方がエコで先進的ではないかと思うのではないだろうか。(それとも、むしろターゲットは今ドラえもんを見ている子供たちであり、彼らに今一度車の魅力を提示しようと言うCMだったのだろうか)。rebornされるべきなのは、のび太が子供のころに抱いた夢なのである。

もっといえば(これはこの後の展開なのかもしれないが)、どうしてドラえもんの世界観のもとで、自動車などという前近代的な乗り物に乗らねばならないのかわからない。空だって飛べる世界、どこにだって一歩でいける世界こそが、ドラえもんの魅力だったのではないか。こうした世界観が無視され、なぜ自動車なのか。のび太の大人の世界は未来を示しているようでいて、ドラえもんからみえればあまりに過去を示している。そういう構成をとることの意味がよくわからない。

【オトナグリコ】

人気アニメドラえもんを用いて、その未来を示すというCM構成は、数年前に放送されたグリコのオトナグリコCMに通じるものがある。当初、ドラえもんのCMが放送されることを聞いたとき、僕は直観的にこの2つのCMを比較しようと思っていた。オトナグリコの感想については、『Q&A マーケティングの基本50』のQ.29にも書いた。その中では、僕はオトナグリコをあまり評価していないのだが、CMそれ自体の完成度としては、今のところだんぜんオトナグリコの方がシャープだったと思う(オトナグリコは、CM完成度が高すぎた)。

オトナグリコでは、サザエさん一家の20年後ぐらいが描かれる。それぞれのキャラクターは大人になり、イクラちゃんなどはベンチャー企業の社長にまでなっている。未来を感じさせる風景だ。だが、その中でもいくつも変わらないものが残されている。磯野家、そしてカツオはその典型だろう。
オトナグリコの主張は明確で納得しやすい。子供の頃食べていたであろうグリコ製品の数々(実際、グリコ製品のターゲットの多くは子供である)。大人になり、食べる機会が減ってしまったかもしれないが、それは今も確かに存在する。大人になった皆さんも、時に昔を思い起こし、食べてみたらどうだろうか。もっといえば、大人向けに提供される製品も増えてきた(チーザやクラッツ等)。これらをまた買ってください、というわけである。サザエさんの未来を描きながら、ノスタルジアまで含めて、その世界観に自身の活動を重ね合わせている。これはとてもわかりやすかったと思う。

ただ、オトナグリコは、プロモーションとしての作り込みが弱かった。CM自体の構成は優れていたが、それだけではプロモーションとして成立しない。しかも、CMが優れていすぎたために、それだけで完結してしまうきらいがあった。例えば、あのCMは企業CMではなく、ある特定の商品のためのCMだったのだが、今ここでその商品名を想起できる人はどれだけいるだろう。それを買った人はどれだけいるだろう。たぶん、ほとんどいない。

ということで、それにしてもrebornである。ドラえもんと自身を重ね合わせれば、自動車自体が否定されてしまう。そこまで含めてrebornというのならば一貫していると言えるが、少なくとも、2011年11月の時点では、そのような雰囲気は見て取れない。キムタク−たけしの信長-秀吉にしても同様である。彼らを否定してまで、rebornの可能性を提示できるのだろうか。あるいは、せめて彼らの負の側面(というか、信長であれば延暦寺焼き討ちや、秀吉であれば耳の塩づけなど、今からみれば狂気的にみえる点)をどこまで示す覚悟があるのか、生まれ変わるとはそういうことなのだと言えるのかどうかが問われているように感じました、けどね。

【3つ目のCM】
というわけで、rebornCMをみて、数年前のオトナグリコ等を思い出していたわけだが、最後にもう一つ、先に述べた鹿毛さんに教えてもらったエステーのCMを考えておこうと思う。2004年以降の消臭力を中心としたエステーのCMは、どれも印象深く、実際に好感度ランキングの上位に位置するとともに、商品の売り上げにも大きく貢献しているとされる。一見すると面白いだけを追求しているように見えながら、実に細かい演出が考えられているという。

例えば、消臭力を(リョク)ではなく(リキ)であることをちゃんと覚えてほしい、と歌うCMがあった。何ともばかばかしいCMだが、確実に、これを聞いた人々は消臭力(リキ)という名前を覚えるであろう。その結果、競合である消臭源(ゲン)との違いがはっきりとする。ただ単に名前を覚えてもらうCMのように作られていながら、なぜこのように覚える必要があるのか、明確な理由が存在している訳である。
2008年には、支店長等をバックにして子供がぷるぷる消臭という製品に合わせたダンスを披露するというCMが放送された。こちらもばかばかしいと言えばそれまでだが、確実に目を引き、何のCMであるかがわかり、合わせて、CMを読み込もうとする(後ろのおっさんは誰だ?)受け手の能動性を引き出していた。

そして震災後のCMである。ポルトガルにおいてミゲル君に歌わせたその一曲は、まさにあのタイミングにはまった。非常時の中で、それでもCMらしくあろうとした点は、今から思い返しても印象深いものがあった。聞いた限りではあるが、ずいぶんと細かい演出もなされていたという。アングルが一つの鍵だったらしい。

ReBORNとオトナグリコは作りからして似ており、エステーは別物であるように見える。だが、これもすべておなじCMなのだという点には注意が必要だと思う。CMという枠の中で、同じように評価される。そして、それぞれが印象深いという点では共通しているが、エステーのCMだけがもやもや感が残らない点にも注意が必要だろう。このあたりをもう少し考えてみたいと思うのだが、書き始めて2時間経ってしまったので、ひとまずこのくらいで。。


2011年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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