30歳成人説

1.人生50年?
学生の頃に、友人に聞いた話です。「30歳成人説」。聞いた時もその通りだと思いましたが、今も、そう思っています。まあ40近くなったりしたら、40歳成人式なんて言い始めそうだけど(笑

元ネタは村上春樹らしいですな(たしかに、『そうだ、村上さんに聞いてみよう』の118‐9頁のあたりにそんな話が載っています)。村上春樹といえば、『ノルウェーの森』以来よく読んでます。一番は、やっぱり『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』かな。これはねぇ、よくできてるよ。だいたいタイトルがかっこいい。それからもちろんストーリー。ちょっとネタばれながら、二つのパワレルワールドが同時進行しつつ、実はその二つの世界が、僕という存在を契機にして交差していることが見えてくる。世界‐内‐存在と。

そういえば、竹田青嗣もどこかで批判的だけど書評していたような。。。(もっと余談ながら、竹田青嗣といえば『陽水の快楽』かな。で、陽水といえば「傘がない」と奥田民生で、奥田民生といえばユニコーンだね。。。)

で、話は戻って30歳成人説。人がいつ成人になるのか、というのは、たぶん時代によって違うのだと思います。かつての時代にあっては、30歳なんてのは晩年に近いころだったわけで、このあたりは吉田兼好が言っているかと。
徒然草、第七段あだし野

「命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」

それに比べると、やっぱり時代は変わっています。そういえば、戦国時代は「人生50年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり」だし。寿命が延びるに従って、成人のポイントが変わるのはまあおかしい話じゃない。

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2  30歳成人説

 人生は30歳から始まる。ということが、「30歳成人説」のだいたいの意味なんだと思っています。まあ法律的、倫理的な問題はいろいろあるんだろうけれど、それでもまあ、今の時代にあっては説得力がありそうです。20歳の成人式なんか、ホント意味を失っているからね。 「30歳成人説」のメリットは、まずもって、現在の日本の教育制度にうまく合っているという点が挙げられます。6・3・3・4の教育制度では、20歳前後を大学で生活します。大学は基本的にモラトリアムだから、まずもって前半の6・3・3はソーシャライズという意味で教育が意味を持ちそう。それに対して、それ以降はしばらく自分で考える(あるいは、何も考えない)ための時間ということになります。
 20歳で成人ということになると、ソーシャライズが終わっていきなり大人ということになってしまう。これでは、社会に内包される人ばっかりできそうでちょっと具合が悪い。基本的なソーシャライズが終わった後で、ちょっとゆっくり社会と距離を置く。これが大学の一つの仕事だと思います。
  ただ、大学で4年あるとはいえ、猶予としてはちょっと短い気もします。やっぱりもう少し時間が欲しい。ここで、大学院に行けば、さらに2・3と足すことができます。(あるいはゆっくり遊学するとか)。これで、27,8歳にはなる。僕が大学院に行ったのも、30歳成人説の影響がちょっとはあったのかもしれない。
 22,3で就職して社会人になる人から見れば遅いように見えるけれど、そんなことははない。むしろ、30歳まで自由にできるかどうかが、その後でジワリジワリと効いてくるんじゃないかな。だいたい、2・3と行っても、最短ならばまだ3年あるわけだから(6・3・3・4・2・3で27歳だね)、余裕はあるかと。
 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 新装版 (新潮文庫 む 5-4) 大学院・大学編入学社会人入試の小論文―思考のメソッドとまとめ方 アメリカの大学院で成功する方法―留学準備から就職まで (中公新書) 生涯学習時代の成人教育学 (明石ライブラリー)
3 まあ
 というわけで、30歳成人説と(偉そうに)教育環境のリンクを考えたりしたわけですが、最後に成人になるということについてちょっと考えておきます。
 人生はもちろん連続的な出来事。僕は一貫性を持って僕であり続けます。ただ、成人になるということが意味しているのは、少なくとも、それまでの小人ではなくなるということのはずです。この分類は、代替的であって同時には成立しません。 小人をやめて成人になる。まあこれだけであれば、そんなに問題はないかもしれない。けれども、もう少し抽象的に考えると、一つのことを始めるためには、一つのことを止めなくてはならないということを意味しているともいえます。もちろん、同時に成立する事柄もあるわけですが、成人になるということに関しては、そういうことのはず。
 始まる瞬間は、いつもリスクです。そして、終わる瞬間もまたリスクです。物事の切れ目は、常に不確定な要素に包まれていると思います。その点は考えておかないといけないかと。
 30歳成人説でいけば、少なくとも30歳までは、いろいろ挑戦することができるようになります。失敗しても、まあ本番はこれからだからと思うことができます。かなり心に余裕ができそうな話です。しかし一方で、30歳成人説はジャンプのリスクを先延ばししているということにもなります。老いてからリスクを負うのは大変なことです。できることならば、リスクは若いうちに処理しておきたい。そう考えると、昔ながら、あるいは大学生のまだいま一つ世の中の分かっていない時に、成人式をしてしまうというのも悪くない気がします。
 なんてまあ、あれこれ無駄に考えてきましたが、、、大事なことは自分がどう考えるかということだけですね。別に成人になることを高らかに宣言する必要は今はないわけですし、やってみて、やっぱり戻るということもできないわけじゃない。と、自分に行ってみる今日この頃です(笑
追伸:そういえば、「下天のうち」に比べたら、20だろうが30だろうが夢幻だねえ。

2011年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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