僕が定性的な消費者調査をしたことがない理由

[そういえばと思ったこと]

10年ぐらいマーケティング分野の研究をしながら、いろいろ論文を書いてきた。基本的に雑食なので、マーケティングだろうが消費者行動だろうが、面白そうだと思えば何でもとりあえずやってみた。

そんな中、今度、消費者にインタビューをすることになりそうな機会ができた。そこでそういえばと思ったのは、僕は、消費者にインタビューして何かを聞いたことはほとんどないのではということだった。もちろん、日常的に話を聞くことはある。けれども、それを論文の材料として使ったことは、共著で他のメンバーが行ったという以外にはない。ようするに、僕自身はやったことがない。

消費者行動関係の研究で僕がしてきたのは、主として理論的研究であり、後はアンケート調査で統計的に処理するという分析だけである。やはり、いわゆるインタビューを用いて質的調査を行ったことがない。

消費者行動を研究するにあたって、消費者に話を聞かないというのは、考えてみると変かもしれない。逆に、企業のマーケティングを研究するにあたって、企業の方に話を聞くという機会は非常に多い。いわゆる事例分析ということになれば、すぐにでも担当の方にお会いして、詳細な話を聞きたいと思う。

この違いは何だろうか。単に僕がさぼっていたのだということなのかもしれないけれど、少し考えてみると、そうでもない気がする。消費者に聞いても、論文の材料にならないような気がしていたのである。と同時に、企業の方に聞くというのであれば、論文の材料になるように感じる。この感覚の違いはどこから生まれているのだろうか。そんなことを思い立った。

[行動データならば]

企業の方の話であれば論文の材料になるように感じるのは、それが一個の事実として、記録しておく価値があると感じるからだと思う。それに対して、消費者の話がそう感じられないのは、それが事実であるかどうかよくわからないからである。特に購買理由や意図に対するインタビューを行うとすれば、多分僕が感じるのは、それが事実かどうかというよりも、そうして理由や意図が訴求的に構築されているという感覚だけである。これをもって、理由や意図という存在を批判したくなってしまいそうだ。

企業の方へのヒアリングについても、「どうしてそういうことをしたのか」と聞けば、ことは同じかもしれない。ただ、それでも僕はその結果を記録するような気がする。そういう訴求的な構築が行われながら、ある種の決定がなされていると考えるからである。とすれば、消費者もまた同じではないだろうか。ここには、数の問題しかないのかもしれない。企業の方の場合は、少なくともそのサンプル数1に注目できる。これに対して、消費者という場合には、サムオブゼン、たくさんいる消費者行動の中の一つにすぎないというわけである。

理由や意図を聞くことに、研究としての価値を感じない。とすれば、今度は行動結果が重要なのかということになる。例えば、消費者行動についても、購買理由や意図は問えないとしても、購買結果であれば分析できるというわけである。たぶん、そうだろうと思う。テストマーケティングが必要とされる理由もここにあるのだろう。消費者がどうして買うのか、あるいは本当に買いたいと思っているのかは、根本的には調べようがないが、いずれにせよ買ったかどうかという結果は、事実として集計できるだろう。

[消費者の心]

数年前に法政大学で商業学会があったとき、岸谷先生がそんな話をしていたことを覚えている。「どうして消費者の心を知りたいと思うのだろう。」その通りだと思う。相手の心なるものがどこかに存在しているかどうかはよく分らない。僕たちが見ることができるのは、相手の行動(我々の最近の研究でいえば、行為のパフォーマヴィリティということになる)である。相手の行動は、相手の心と張り付いている。その商品を手に取り、裏側の記載を眺め、それから隣の商品と見比べて、そして軽く頷いてその商品をかごに入れる。この行為において、まさに僕たちは相手の心をみる。行為から離れて(それから、より正確には僕たちの観察から離れては)、相手の心はありえない。

研究の材料として相手の心を分析しようという場合には、それゆえにいくつか準備が必要になりそうだ。このアイデアが、僕にはあまりなかったということかもしれない。一つには、直接聞くというだけでは、いろいろ難しいところがあるのかもしれない。実際に、行為をしてもらいながら、あるいは、行為に関する内容を聞きながら、ということになるのかもしれない。

考えてみると、僕たちはしばしば例を求める。例えばそれはどういうことですか?例えばどんな風にやるのですか。こうした例示は、説明をわかりやすくするという効果があることは直感的に理解できるが、その理由を考えてみると、ようするに例示こそが心であったり、理由であったり意図であったりと直接張り付いているからなのだろう。

研究として記録するとすれば、こうした例示をうまく記述するということになりそうだ。それから、多分インタビュー自体が構成的に行われているだろうから、会話分析とまではいわないが、インタビューの状況もできるだけ記録しておいた方がいいのかもしれない。この辺りはかなり難易度が高そうだが、そうすることで心の分析が少しはできるかもと思う。とはいえいずれにせよ、それは心を実在として分析するのではなく、行為に即して分析するという形をとるのだろう。

 


2012年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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