3つのCMから:補足 もう一つのreborn

【補足】

さっき3つの広告からを書きまして、サクッとごはんを食べていたわけですが、一部分修正したい気になってきました。で、オリジナルを直そうかと思いましたが、いやいや、別途外伝作った方がいいかなと思いまして、少し補足がてら脱線です。

修正しようと思ったのは、「rebornされるべきなのは、のび太が子供のころに抱いた夢なのである。」という一文です。これも悪くないのですが、むしろ逆の言い方にしたほうがいいかなと思いました。すなわち、「車も免許も持たず30歳になったのび太こそが、rebornに成功していたのである。」

焦点の当て方を変えるというだけですが、考えてみると、この変更は大きいかもしれないと思いました。最初の文の場合、これまでののび太はさておき、少なくとも、昔の夢と今の現状があり、昔の夢を追及せよというCMの主張に対して、そんな必要はないと言うことこそがrebornであるということになります。これに対して、変えようと思った文章の場合、のび太は、いつの間にか当初の夢を捨て、あるいはあきらめ、車も免許もない生活を営んでいた、だがそれこそがrebornだったのであるという感じになりそうです。前者のrebornは強さがあると言いますか、変革を打ち出すのに対し、後者のrebornは、ネガティブといいますか、あんまり変革という感じはしない。

もともとrebornを考えた時、イメージに合ったのは前者の改革の強さでした。だからこそ、信長-秀吉についても、改革とは血をみるかもしれない一種の狂気さえはらむはずだ、といったわけです。しかし、もし後者の30歳ののび太こそがrebornの体現者であるとすれば、それはずいぶんと情けないといいますか、平和な感じです。

後者の30歳ののび太こそが、rebornの体現者であるといってもいいような気がします。改革や変革とは、あるときそれまでの世界を180度反転させるような形で起きるのではなく、緩やかに、いつの間にか、当たり前のこととして進展していくものであっていい。むしろそのように考えたほうが、今日的な改革や変革は実行しやすいのではないかとも。

この手の話は、例えば松嶋・水越(2008)「制度的戦略のダイナミズム」で書きました。制度を変革せねばと考えると、内部では制度変革ができず(埋め込まれたエージェンシーのパラドクス)、外部が必要だとすればそもそも当事者にとっては何の示唆もない英雄待望論になってしまいます。そうではなく、制度を変革せねばと、いう際の対象としての制度の実在性を一度括弧に入れておくこと、制度とは日々の実践に担われてしか具体的に表れようがないのだから、その実践の多様性に注目することが大事だといったわけでした。

【もう一つのReborn】

無駄にrebornにこだわってしまったのは、やっぱりrebornというとsyrup16gを思い出すからかなと思います。「昨日より今日が、素晴らしい日なんて、わかってるそんなこと、当たり前のことさ。時間は流れて、僕らは歳をとり、汚れて傷ついて、生まれ変わっていくのさ」とまあ、かっこいい。
解釈はいろいろありそうですが、個人的には、日々僕たちは生まれ変わっているというようなことかなと思っていました。その生まれ変わりは、汚れて傷ついていくことだけど、昨日より今日のほうが素晴らしいのは当たり前だと。このぐらい言いたいものですが、なかなか。。

なんにせよ、だらだら生活し、ドラえもんに今もすがろうとするのび太は、意図せざるして、現代に即した人間になっていたといえるような気がするわけです。この国を一つにまとめねば、そのために(あるいはその結果として)、rebornを目指す姿はもちろんかっこいいですが、そんなことをしなくても(あるいはそうならなくても)、ぼくたちはやっぱりrebornできるのではないかと、そんなことも思うわけです。それはそれでかっこいい。

のび太に求められているのは、免許を取りに行こうと思い立つことではなく、免許を取らなかった自分を肯定することであり、過去を意志することでしょう。そのとき、のび太自身、rebornしていたことに気づく。広告主も、視聴者も、その時にrebornしていたことに気づく。そんな感じかなと。国にしたって、国という変革の対象が実在しているわけではたぶんなく、日々の実践が国やら日本人を形作るわけですし。

<20120128>
続編がいろいろと作られているようです。それはそれで面白いのですが、やっぱり、車とドラえもんという組み合わせの違和感が払拭されませんね。。。ジャイ子はいいけれど、車いるのかどうか。。。


2012年08月14日 | Posted in エッセイ | | No Comments » 

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