本質直観に関する研究会で考えたこと:類

 先日、通称MMM研究会で本質直観の話をさせていただく機会があった。メンバーは広告代理店系の方数名を中心に、今回は哲学領域のプロパーの方や、それから中原先生にもお越しいただき、とても示唆のある会になった。

  ディスカッションの中で、特に重要であるように思われたのは、類の考察に関わる問題である。これまで僕自身が本質直観を説明する際には、リンゴのリンゴらしさのようなものを紹介してきた(OJM2013,1:PDF)。しかし、この説明では類の議論が抜け落ちてしまいやすい。実際、僕の中でも、いつの間にか類の存在を考察しているということがあまり意識されなくなっていた。
 むしろ本質直観としていい例になるのは、ポチやシロから犬を考察するということだろう。個体としてのポチやシロを見て、我々はそれが犬であると思う。何かしらの属性が失われるとき、それが犬でなくなることもまた、同時に理解できる。
 もちろん、この考察は、犬の定義をポチやシロといった個体から「帰納」する、すなわち経験世界の出来事から理論世界を構築しようとしているわけではない。というのも、我々がポチやシロを犬であると思うこと自体は、そうした不可能な帰納によらずとも、既に現実において可能だからである。その証明された状態のありようを問うのが本質直観であり、現象学的な立ち位置だということになる。
  翻って、マーケティングの事象を考え直してみよう。こちらも僕が例としてよく使ってきたのは、照明ランプの使用方法について、ソーシャルメディア上のコメントに気づきを得たというマーケターの話である。この場合、帰納ベースの発想で言えば、サンプル数の少なさ、およびサンプル自体の信憑性が致命的な問題になる。だが、現象学的にみれば、いずれも帰納ベースの問題であって無意味である。気づきを得たというマーケターの確信の強さだけが重要だからである。
  これまでの僕の説明では、ここからそのマーケターがなすべきことは、自分の確信の根拠を探るということであった。この際、他者が介在する余地が生まれることで、対話が必要になり、その過程で外部世界の情報もまた利用可能な意味を取り直すと考えていた。確かにこれでもいいように思うが、しかしこの場合には、類の議論が弱い。
  類を念頭においた場合、ここで重要なことは、照明ランプの類が揺るがされているという点にある。旧来、照明ランプとはそういうものであると考えてきたことに対して、潜在的であろうがなかろうが、想定していなかった照明ランプの可能性が提示されているからである。とすれば、問われるべきはもちろんその確信の根拠だが、なぜそう思ったのかということだけではなく、照明ランプの類についての考察が必要になるといえる。
  この理解の利点は、帰納ベースでの説明とは異なる説明の様式を明示的に与えているという点にある。一つ目は、比較点単純な話だが、単に自分の確信を問いなおすというだけではなく、照明ランプとは何であるのかについての認識の再検討が問題になっていることを示す。この際に必要なのは、そうした照明ランプの使い方をする人がいるかどうか、ではなく、既存の照明ランプとの比較であったり、認識の再確認ということになる。
  より重要なのは、もう一つの点である。照明ランプの類の検討は、結果として、新たな類の形成を提示するかもしれない。例えば、その新しい類を照明ランプ2と呼ぼう。これまで、照明ランプはただ暗いところを明るくするだけ、購買基準はその明るさであったりデザイン性であると考えられてきた。しかし、今回の発見は、こうした照明ランプとは異なる照明ランプ2の存在をほのめかすことになった。ここで重要になるのは、当の存在を帰納ベースの発想で照明することではない。というよりも、ここではそうした証明は極めて難しい。新しい類は今生まれつつある類だからだ。ここでは、そうした新しい類を形成できるかどうかが問題になる。
  類が真理として確定可能なものであるのならば(通常はそう考えるのだろう)、我々がポチを犬として認識できるのは、犬という真理をポチを通じて知っているからだということになる。だが、犬は変容可能である。あるときタマを犬として組み込むことになったとしても、そんなに不思議なことはない。とすれば、照明ランプ2の可能性に驚いたということが意味しているのは、犬の変容可能性に触れた、その瞬間だったということになる。このとき、それを例外的な問題として取り扱い、照明ランプの定義を守るか、それとも、照明ランプ2の可能性を考察するのかは、まさにマーケターのセンスとして開かれることになる。

2013年08月14日 | Posted in エッセイ | | No Comments » 

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