「その投稿は本当か噓か?新しい「発見」の方法」雑感

[後日談]

先日、個人的にうまく書けたなと思っていたエッセイを東洋経済にのせていただいた。「その投稿は本当か噓か?新しい「発見」の方法」という題で、すでにネット上にも公開されている。今回は、このエッセイに寄せられたコメントについて、少し答えておこうと思う。

エッセイの内容自体はみてもらった方が早いが、一言で言えば、相手を調べても大したことはわからない。むしろ、自分の確信(の根拠)を調べた方が生産的であり、新しい発見があるのではないかということであった。それなりに興味をもらえたようで、様々な感想をもらったり、みることができた。

多くは、基本的にこのアイデアそのものはなるほどと思うのだが・・・というところから始まり、次の一手を模索するものであった。一つの論点は、自分を調べて何かしらの確信に到達したとして、それがどうして他の人たちにも共有可能な「客観性」(もはやそれは、通常の意味での客観ではないことはいうまでもない)や一般性まで至ることができるのかということであった。これについては、本文中では、我々は同じ日常に生きているのだから当然といった形で示しておいたのだが、確かにわかりにくさはあったと思う。

この議論は、一つには生活世界とよばれる哲学的なアイデアを元ネタにしている(理解が合っているかどうかは心もとない)。我々が日常的に生活し、当たり前のものとして暮らしているこの世界がすべての認識の基盤だという考え方である。当たり前のようだが、我々はこの生活世界から独立して何かをなすことはできない。それがどんなに独我論的な思考実験であったとしても、やはりその思考はこの生活世界とともにしか成立しない。科学のようなものも同様だと思う。たくさんの発見は、やはり日常的な常識に支えられている。これは証明すべき対象ではなく、当の証明しなければならないと考えるということ自体が、すでに生活世界とともにしかありえないという意味において、明証的である。

自分を調べる結果みえてくるのは、こうした生活世界だろうと考えていた。ようするに、私という主観による何かしらの確信はどんどんと解体され、この生活世界に支えられていることが実際に見えてくるだろうというわけである。ここまでくれば、他の人たちにもその確信が理解可能になるはずだと思われる。もちろん、それは他の人たちが納得し、了解するかどうかとは依然として別である。けれども、問われていた問題自体はこれで解決しているはずだ。通常の客観性(みんながそう思っている)という発見を持ってしても、他の人たちがそれに納得し、了解するかどうかは依然として別の問題のままだからである(そのデータが正しいことはわかるけど、俺は感覚的に納得できない、と言う上司を想定してみよう)。

[僕とあなたの日常は異なるだろうか?]

もう一つ、この点に関連して面白い指摘があった。同じ日常というが、例えば私と原発問題にさらされた人々の間に、同じ日常があると言えるのかという問いである。比喩が今風で正直笑ってしまった指摘だが、大きく3つの視点を提示できるとともに、特に3つ目は、まじめに考えるべき問題かもしれない。

第一に、この指摘は生活世界の考え方を改めて説明すれば、誤解であることがわかる。ここで述べた日常とは、「そういう意味」での日常ではない。第二に、もし、今回の地震に大きく驚き、異なる日常の存在を痛感するという契機があったのだとすれば、それこそ驚いた自分を問い直すチャンスである。したがって、この問いは私に向かって発せられるべきものではなく、自分で考えるべき問題である。そして第三に、もし、我々と原発問題にさらされた人々が異なる日常を生きているのかと本当に問われているのならば、我々は、同じ日常を生きているといいきれるかどうかはともかくとしても、少なくとも、異なるとは言ってはならないだろうということである。

まずもって、他人の生活がどういうものであるか、それは他人にはどうしようもなく知りえない。現地に行って、見て、聞いて、あるいは一緒に暮らしてみたところで、決定的に相手を知ることはできない。それこそ、今回の議論で最初に述べた通りである。ここで我々にできることは、そこで感じたことや考えた己の確信の根拠を問い直し、その根拠が独我論的なものではなく、それこそ生活世界を基盤にして成立していることを確認することであった。こうして見出される生活世界という基盤こそ、我々が決して独我論的な世界ではなく、他者とともに生きているということを了解する契機であり、そしてひいては他者と理解を共有できる根拠として機能するのであった。

とすれば、先の問いは、「異なっている」と短絡的にいってはならないことがわかるはずだ。そう言ったとき、他者との理解可能性は潰える。最悪の場合、彼らは不幸であり、自分は幸福であり、したがって幸福な私は不幸な相手を助けるべきであるという関係性をつくりだしかねない。

人によっては、これこそ友愛だというかもしれない。たしかに、困っている人を助けるということ自体は優れて重要なことには違いないが、この論理には、差別の芽が入り込んでいるということにも気づかねばなるまい。自分と他者に違いを見出すことは、助けるきっかけになるかもしれないが、排除のきっかけにもなる。

さらに、この場合、自分の身を捨ててまで、相手を救うという気持ちにまで発展しうるだろうか。もちろん、友愛というのならばそこまでせよといっているわけではない。そうではなく、「異なっている」という判断をする限り、ずいぶんと他者との理解可能性は狭まるといっているのである。逆に言えば、異なっていようといまいと、相手のために何かをなすことはできるのであり、そこにわざわざ何かの違いを見出す必要はない。あえて助けるために理由が必要だというのならば、相手が不幸だから(逆に自分が豊かだから)助けねばならないのではないというのではなく、一緒に生きているからこそ、助けるべきなのだといってみたらどうだろう(個人的には、すでにそういう理由を見出す必要を感じないが)。


2013年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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