論文を読むというのは、例えば、時計を分解するという感じ

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卒論や修論に向けてそろそろ論文を書かないといけない方々が増えてくる今日この頃(後期はじめ)。とはいえ、論文を書くためには論文を読まねばならないわけで、書く前に、読む練習が必要になります。こちらはぎりぎりになる前に練習しておいた方がいいわけですが、あんまり気にせずに放置されたりしています。なんといいますか、英語はともかく、日本語だったら大丈夫、ちょっとぐらい難しくても読めるよ、と思ってしまっているわけです。ところが、そういう方に限って、実は論文が読めないというのはよくある話です。正直なところ、この傾向は賢い方の方が多い気がします。本1冊でも小1時間もあれば十分読んでしまえる方、残念ながら、論文は読めないけっこう可能性があります。

要するにこういうことでしょ。2万字程度の論文を一瞬で圧縮してしまえる能力。この能力は、たぶん賢さそのものだろうと思いますが、それは論文を読んだことにはなりません。論文を読むということは、たぶん、逆の作業です。2万字程度の論文を、分解してしまうということ。分解すると、2万字程度であっても、少なくともその10倍程度のサイズにはなることに気づくこと(圧縮と解凍の方がイメージに合いますかね)。これが、論文を読むという作業かなと思います。それは賢さとは逆であり、地味で、時間がかかる作業です。

タイトルに書いたとおり、もちろん別に時計でなくてもいいのですが、何か精密機械が故障したとき、それを直すためには蓋を開けて分解し、問題の所在を突き止める必要があるというイメージが、論文を読むイメージに近いように感じます。論文の主張は基本的にシンプルです。だからこそ、圧縮して捉えることは、実はそんなに難しくはありません。けれども、論文を読むというさいに大事なことは、主張や結論ではありません。むしろ、なぜそうした主張がなされているのか、主張ができるのかを読み解き、証明の方法を吟味し直し、主張の限界と意義を計り直す必要があります。

めんどくさい作業です。僕たちが時計を分解して直すことはたぶんできないように、論文を書くことや読むこともまた、訓練しないとできない作業であることに気づく必要があります。誰でも文章を読んだことはあり、文章を書いたことはあります。だからこそ、それは誰でもできるように感じてしまうわけですが、残念ながら、そうではない。それは、ノーベル賞を取れるかどうかを競っているような限られた世界と日常の世界の差ではなく、もっと僕たちの日常の世界において、決定的に生まれてしまっている違いだと思います。だからこそ逆にいえば、訓練さえすれば、2年もあれば、十分に習得できる範囲の能力でもあるわけです。


2015年10月13日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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