ビジネススクールで修士論文を書くということ 現場の問題を自分から(少しだけ)切り離せ。


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「研究」する理由は何か

年末から年明けにかけて、毎年、修士論文や卒業論文の提出時期となります。書き上げたつもりの文章がダメ出しされて大変なことになるのはもはや日常茶飯事ですが、その中で、どうしてこんなに大変な目にあわねばならないのだと、ふと遠くに目をやってしまうこともあるかと思います。この気持ちは、卒論よりもビジネススクールでの修論の方が強いかもしれません。特に、その研究が論文としての精度を求められればられるほど、そう感じるに違いありません。

理由は簡単で、ビジネススクールに来られる方々の究極的な目的は、自身の実務にビジネススクールでの知見を生かすことにあるからです。しかし、論文としての精度は、直接的には実務への関わりを欠いているようにみえます。例えば、参考文献の書き方を気をつけることは、論文としての精度としては最重要な課題の一つですが、だからといって、「」ではなく『』を使うことが実務的に意味があるかどうかは定かではありません。しかもこうしたルールは殆どがローカルルールであり、分野が変われば、『』よりも「」が良いとされる場合すらあります。この手の形式に拘る細かい指摘を延々と受けるうちに、これは一体何のための作業なのだろうと思うことは、あたりまえでもあります。あるいは、先行研究を調べるにしても、そんなに調べなくても十分わかっているよ、と思うこともありそうです。

研究の作法を学ぶということが、修士論文(や、一応卒業論文)にとっては重要になっているといえます。研究者になろうとするのならば、それは必須に違いありませんが、ビジネスの現場で生きていこうというのならば、この作法は雑学の知識以上の意味はないようにも見えます。以下では、改めて、ビジネスマンがビジネススクールで「研究」し、修士論文を書くということの意義について考えてみたいと思います(学部生の卒論も一応含む)。

修論もビジネススクールも、実務上の魔法の杖には多分ならない

最初に確認しておきたいのですが、実務的な問題を解決したい、あるいはそのための解決方法を考えたいという場合、ビジネススクールだけが唯一の選択肢ではありません。むしろ一般的には、実務的な問題は社内の上司や部下とももに解決されるでしょう。少し範囲を広げて、同じ業種や業界での勉強会、あるいはもっと広く、異業種交流会などを通じても解決できる可能性があります。もっと一般的な知識を参考にしたいというのならば、コンサルタントに依頼すればいいでしょう。

これらの選択肢において、ビジネススクールを選択するという必然性は殆ど出てこないはずです。それゆえに、それでもなおビジネススクールを選択するという場合には、もう少し別の問題意識が必要とされるように思われます。例えばそれが、「研究」への興味ということかもしれません。

研究という言葉の広がりとして、科学的で客観的な正しさを確認したいという希望があるかもしれません、値下げをすると本当に売上が上がるのかどうかを確認したい、我が社が取るべき組織体制は有機的組織でいいのかどうかを確認したい、経営資源をこれからデザインに投資することが正しいかどうかを確認したい。こちらであれば、一見すると、ビジネススクールらしい課題のようにもみえます。

ただ、これらの課題であっても、やはり社内でもコンサルタントに依頼しても、あるいは、大学教員に調査やコメントを依頼しても、解決できないわけではありません。しかももっと重要なことに、これらの課題に答えるすべは、思っているほどビジネススクールで研究できるわけではありません。値下げして売上が上がるかどうか、組織体制をどうするべきか、どこに戦略的な投資をすべきか、これらは教科書に答えが書かれているものではなく、実際に行うことで実現するべき作業です。値下げをすれば売上が自動的に上がるわけではないことは自明でしょう(先日、実験として電子書籍を半額に落としてみました。売上はもとより、販売冊数すら上がりませんでした。なぜでしょう。そして、にも関わらず、値下げしてみたのはなぜでしょう)。

科学的で客観的な判断をしたいという課題に付随して、ビジネススクールを志望される方々には、知識を整理したい、あるいは、体系的な知識を学びたいという方もおられます。ビジネススクールの選択理由としては一理ありそうですが、この手の希望も研究には合いません。というよりも、個人的に、ビジネススクールの選択理由としてもあまりよくないと思っています。この発想は、研究を妨げます。

体系的な知識への期待は、知識は(体系として)確固とした形があり、それをあたかも自動車やパソコンを購入するように、ものとして手に入れることができるという前提があるようにみえます。あるいは、人によっては、鉄砲や刀のように、知識そのものがある種の武器であり、それを持つことで一気に攻撃力が上がると思っている方もいます。先の科学的で客観的な判断をしたいという場合にも同じ傾向がみられますが、そういうものがないかもしれないと思えることこそが、ビジネススクールで学ぶ一つの意義かもしれません。

それでも体系的な知識を武器として欲しいというのならば、本を買えば十分でしょう。特に研究書は分厚くて固いですし、うまく角を使えば破壊力は抜群です。ビジネススクールや修士論文で期待され、また必要とされるのは、科学的で客観的である必要はありますが、少なくとも体系的な知識ではなく、それを突き崩し乗り越えるような新しくも暫定的な発見です。体系的な知識なるものは、そのための手段であって、最低限あれば十分です(だからこそ、実務をされている方にはその分野についての最低限の知識が身についているはずですし、それで十分です。あとは、修論で言えば、いわゆる先行研究としてデコレーションするだけです)。

あと、より現実的には、大学教員も含めた関係性の構築を目的とするという場合もあるかもしれません。こちらは『MBAが会社を滅ぼす』でも言及されていたかと思いますが、ビジネススクールが提供する重要な一つの機能でしょう。ただこちらについては、今回は横においておきまして、あくまで、「研究」の方を考えていくことにします。

問題を持ちやすい形に変える

なぜ、実務的な課題をビジネススクールで問題として取り上げ、研究するのか。その答えは、一言で言えば問題の持ち方を変えることにあるように思います。全く異なる世界の話ですが、3つの臨床医学のエピソードを紹介しましょう。

①スキーニー・プー 『物語としてのケア』参照。
この事例では、「遺糞症」と診断された6歳の男の子の治療が紹介されている。彼は、壁やタンス、さらにはテーブルの裏に自分の便を塗りたくってしまう。これまで複数のセラピストが治療を試みたが効果がなかったとされる。
これに対して、臨床家は、この問題を「スキーニー・プー」と名付け、この問題がどのような影響を本人や家族にもたらしているのかを質問し、明らかにした。さまざまな影響が生じていることが確認されたが、重要な点として、この問題の存続に自分たちが協力してしまってきたこととともに、この問題の存続に立ち向かったり、あるいはその問題に振り回されずにすんだ例外についても確認することができた。そこで、特に例外的な存在が将来にどのような役に立つのかを確認し、それぞれが今後の対処について話し合った。
二週間後、家族と再開した臨床家は、男の子はその間たった一度の小さな失敗ですんだことを知るとともに、彼から、自分がいかにしてプーの罠から逃れたか聞いた。こうして、問題は解消の方向へと向かっていった。

②壁に頭を打ち付けてしまう子供 『みんなのベイトソン』参照。
この事例では、不快なことがあると壁に頭を打ち付けてしまう1歳の子供と、その子供の育児に悩む母親が紹介される。その子供は、自分でもどうしようもないという形で、壁に頭を打ち付けるという行為を行ってしまう。母親は、それをどうにかして止めたいと思うものの、その方法はうまくいかない。緩衝剤を壁に設置するという方法もとられたが、子供は、今度はそうした緩衝剤のない壁に頭を打ち付けてしまう。
解決策は見出されず、母親は、もはや壁に頭を打ち付けてしまう子供を止めるのではなく、やさしく抱きしめ、「ごめんね、ごめんね」と繰り返すことしかできなかった。だが、あるとき、そうした過程の中で、子供が「いいよ、いいよ」と答えてくれること、その一連のコミュニケーションによって、子供が徐々に頭を打ちつける行為が収まっていくことに気づく。これらの一連の行為を通じて、母親は子供がだんだんと成長していることを確信したとされる。

③当事者研究 『当事者研究の研究』参照。
べてるの家での成果を中心にして、障害者の人たちが自身の障害を研究する活動が行われている。幻聴に苦しむ障害者でも、その問題に幻聴さんと名前をつけ対象化することによって、問題に対しての向きあい方を少し変えることができる。それは、幻聴の当事者として苦しむだけでもなければ、全く関係のない別のものとしてしまうわけでもない。幻聴さんは外在化されつつも、自分の大切なものとして引き寄せてまた抱えられる。そのさい、「持ちやすい形」にして抱えられているという点が重要であるという。

患者は、ビジネススクールに来られる方々です。大学院へ入ることは「入院」とよばれますから、このアナロジーはあながち間違ってはいないかもしれません。とはいえそれ以上に重要なことは、ここでの患者は、「問題」を抱えていることにあります。その問題は、よくも悪くも自分自身はもとより周りの人々にも深く結びつきすぎていて、もはや簡単に解決することはできなくなってしまっています。この「問題」の「解決」を目指すこと、それがビジネススクールで期待される研究の意義のように思います。

ビジネスクールでの問題の解決の方法は、社内で議論したり、業界仲間と研究会をしたり、あるいはコンサルタントに依頼するやり方とは、次の一点で異なっています。大事なことは、ビジネススクールでは、この問題の直接的な解決を目指さないということです。代わりに、研究をするのです。

問題を外在化する方法を学ぶ

研究は、先にみた臨床と同じ意味を持っているようにみえます。まず最初に行うべきことは、患者や周囲の人々と深く結びついている問題を当事者から少し切り離し、「外在化」させることです。このための手段として、いわゆる体系的なる理論や知識が有用になります。理論や知識は、当事者の問題がその人々(や会社)固有のものではないこと、様々な視点から、これまでも議論されもっと多くの人を悩ませてきた問題である可能性を示します。

この意味において、先行研究は重要です。ビジネススクールでは、自分の問題を解決したいだけなのに、どうして似たような問題と解決に関する研究を調べなければならないのだと思う時があります。そんなことを調べなくても、自分の問題を解決するために新たに調査すればいいだけではないかというわけです。この考え方は全く正しいと思いますが、そうであるのならば、ビジネススクールで研究する必要はありません。冒頭に戻り、社内でもコンサルタントにでも調査を依頼すればよいだけです。

先行研究を調べる気になった方も、しばしば、「先行研究がない」と言います。それぞれの問題意識は究極的にはその人個人の問題でしょうから、小さく絞れば、あるいは、ここで比喩で言えば内在的に考えれば考えるほど、先行研究がなくなるのは当然です。けれども、こちらも繰り返しになりますが、ピンポイントで問題に対する答えを得たいのならば、ビジネススクールで学ぶ必要はありません。むしろビジネススクールで研究することが意味するのは、個人や会社に固有でピンポイントな問題意識を相対化し、自分の手から少し離れるようにしてみるということです。

この作業は、実にテクニカルで訓練を必要とします。ビジネススクールで学んだ方ならばわかると思いますが、冒頭のどうして修論を書かねばならないのだ、どうしてこんなに手間なのだという苛立ちや苦しみは、一つには、この訓練の厳しさを物語っています。実際のところ、2年でこの方法をある程度習得できる方は、半分ぐらいでしょうか。人によっては、切り離してしまうことが楽しくなり、もっと研究してみたいということもあります。こうなると、今度は逆の問題として、問題を自分の問題としてうちに取り込むことができなくなり、実務家には戻れなくなってしまいます。研究者というのは、良くも悪くも、こちらの類でしょう。

とはいえいずれにせよ、ビジネススクールで学ぶことができるのは、一つには、この切り離しの方法のように思います。少なくとも、この方法は、その問題をすでに共有してしまっていたり、あるいはその問題に対してピンポイントに答えを提供してもらう社内やコンサルタントへの依頼では、そもそも、学ぶことも利用することもできないでしょう。

当事者が抱えていた問題が先行研究へのアクセスを通じて相対されることにより、その問題は、当事者だけのものではなくなります。その問題は教員や一緒に学ぶ仲間や、あるいは過去の先人たちとも共有され、同時に、共有される中で形を変えることになります。興味深いことに、問題の形が変われば、場合によっては問題そのものが解消されることになります。先の例で言えば、母親が子供が成長しているのだと感じたとき、頭を打ち付けてしまうという問題(、そしてその解決としてのやめさせる)はなくなっています。ビジネススクールにおいて、入学時点で書いた研究計画書がそのまま修士論文のテーマとならないことが多いのは、こうした「治療」がうまく進んでいる理由でもあるように思います(当初の研究計画書が適当ということもあるかもしれませんが、それはそれで試験に通らないでしょう、たぶん)。

問題‐解決を問題とする

ビジネススクールや修論では、繰り返し、自分の問いたい問題は本当は何であるのかということが問われます。この問いに答えることがいかに難しく、また同時に、ビジネススクールや修論の本質であるかは、ここまでの議論から理解できるでしょう。禅問答ではありませんが、答えられなければ当然駄目ですが、逆に簡単に答えられても、内在化し過ぎか逆に外在化し過ぎで間違っているわけです。

問題が与えられれば、それに対して解決を考えることができるようになります。多くの場合、解決を考えることに集中するあまり、当の問題がどういう意味を持っているのかについては目がいきにくくなります。あるいは、無事に解決できればそれで十分だと思っていても、当の解決は問題があればこそ必要とされるため、問題が解決できても実は当の問題は解決されないまま残り続けるという厄介な事が起こりえます。差別をなくすための活動が、差別があるという問題の存在を前提とするがゆえに、しばしばその差別そのものを強化してしまうことがあるのは、一つの例かと思います。こうした問題に対応するためには、解決方法を考えるのではなく、問題そのものを対象化し、問題‐解決の位置をずらすことが必要でしょう。

こうしてみてくると、改めて、ビジネススクールでの研究は実務の現場でもやっていることに近づくかもしれません。そもそも我が社の問題は何であるのか、問いの立て方が間違っているのではないか、そういったことは考える機会があるはずです。おそらく、近いところもあるでしょうし、遠いところもあると思います。遠いところで重要になるのは、そうして見出された新たな問題が、果たして共有可能なものになっているかどうかということです。実務的な課題は、究極的にはその実務における課題であり、どうしても固有になってしまいます。それはそれで重要ですが、ビジネススクールや修論では、まずは問題の外在化を狙うのでした。外在化は、その問題が自分たちだけではなく、広く一般の人々においても共有可能な問題であることを示します。その作業を通すことによって、当事者は問題の持ち方を変えることができ、望むべくは、新しい問題‐解決を見ることができるようになるのです。

余談
ちなみに、残念ながら、長期的には、こうした「研究」重視のビジネススクールや、あるいは大学も少なくなっていくでしょう。ビジネススクールも大学も、体系的な知識を「もの」のように学生に提供し、学生はそれをツールとして使いこなすことが求められるようになっています。それは、一つには時代の要請であり、即戦力が求められる以上、やむを得ないことです。
とは言えその一方で、そうしたパッケージ化には常に限界があるということは、認識しておく必要があるでしょう。その上で、部分的には、そうではないビジネススクールや教育の形が残り続けることも重要かと思います。五分五分にまではいかなくとも、ほんの少し残り続けること、ビジネススクールや教育の差別化や生き残りとしても悪くないはずです。


2017-02-16 | Posted in エッセイNo Comments » 

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