なぜ、ではなく、どのようにして、かな。


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数年前に本を書きました。以来、時々はありがたいことにリアクションがありまして、自分なりに粛々と考えることもある次第です。そんなところの備忘録がてら。

ちゃんと書いていたかどうか覚えていないのですが、少なくとも「顧客になぜと聞いてはいけない」と書きました。で、なぜを聞くとすれば、それは自分の方であると。問いを外に向けるのでなく内に向けるという方法なわけですが、この時に合わせて、顧客に聞くのならば「どのようにして」であるとも書いたような書かなかったような気がしています。

それがどのようにして(成り立っているのか)は、顧客に聞いてもいいのかなと思ったわけです。例えば、ラーメンが好きであるという。これに対して、「なぜ?」と聞くのは愚問ですが、「どのようにして?」と聞くことはできる。これだとちょっと答えにくいですが、ラーメンが好きであるという状況を語ってもらうというわけです。

で、先程思ったのは、自分に対しても「なぜ?」と聞いたら駄目だったのではないかなと。自分にも、であれば同じように、「どのようにして?」の方がよさそうに感じました。なぜ・ならば、自分でも、なぜには答えられない時があるから。あるいは答えると、結局は次のなぜがでてくるから。それは論理的思考の訓練にはなりますが、本質を得るという点ではやっぱり失敗する気がします。

やかんを触って熱いと感じる。この熱いと感じた事自体は、自分にとって疑いようがない。だからこそ、この疑いようのなさを唯一のよりどころとして、その疑いようのなさの成り立ちを調べる。わけですが、このときに、なぜ、私は熱いと感じたのか、と問うてしまうと、生物だから的な理由が出てきてしまう。同じように、なぜこれをほしいと思ってしまったのかと問うてしまうと、子供の頃の経験が・・・的な理由になってしまう。たぶん本質はコレジャナイ。

自分に対しても、どのようにして(成り立っているのか)と問うた方が違う形に展開できる。熱いと感じたのは、生物だからということではなく、熱いという感じの疑いようのなさがどのように成り立っているのかを考える。それは、痛いということであり、手だけではなく頭に響くということであり、同時に手を引っ込めてしまったということであり、しまったと思ってしまったということであり、焼酎を割ろうとしていたということであり、あるいは電気ポットがそこにあり、ふつふつと音を立ていたということでもある。これらの状況が、熱いということを成り立たせている。もちろん、電気ポットがなくても、熱いと感じる瞬間もあるだろうし、しまったと思わないこともあるだろう。これはすなわち、それらが熱いということを成り立たせる本質ではないということでもある。そうして残った状況が、熱いと感じてしまったということの本質なのかなと思う。

この場合、当然のことながら我々の認識が微細な身体の動きと連動していることもわかる。だから積極的に身体への意識を強めることで、本質直観を極めるということもできるようになる。芸のようなものも、同じような感じで捉えられる気がする。誰かになりきるということも、それ・がいかにして成り立っているのかを理解する方法であり、そうすることで本質がつかめるという感じもある。

といったことを少し思いました。あと、これとまた逆の話で、こないだ読んだ本には「ようするに現象学の逆をやろうというわけです。」という一文があり、これはこれでとても興味深く思った次第でした。この場合には、本質ではないものとして捨てられてしまうドグサの方に注目してみる。それにより、ドグサが持つ力や、今度はそちらの力の成り立ちを問うことができる。なるほど、これも相当に色々やれそうな感じがします。


2018年02月09日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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