論文が書けない時は、翻訳をする

論文が書けない時は翻訳をする。以前石井先生にそう伺いました。この時は書籍の翻訳を言っていたように記憶していますが、最近改めてその通りだなと思う次第です。

 

<このあたりの本を翻訳していた頃の経験?>

論文が書けない(書く気にならない)という時は誰しもあります。論文が書けない時、それででも書こうと思うのならば、個人的には英語論文の全訳をお勧めします。どんな英語論文でもいいですが、書きたいと思っている分野の論文がもちろんいいと思います。

全訳は、最近のグーグル翻訳を見てもわかるように、極めて機械的で心を無にして行う作業です。めんどくさいなとか、時間がないなとか思っていると、全訳はできません。ただ心を無にして、心を機械にして、淡々と一パラグラフずつ翻訳していきます。特に仕事として要請されているわけでもないので、うまく翻訳できない文章は飛ばしてしまってもそれほど問題ではありません。大事なことは、淡々と進め、だんだんと著者の気持ちに近づく(ように感じる)ことです。

個人的には、だいたい翻訳をはじめてレビューのところあたりに来ると、引用されている論文がだんだん気になってきます。この引用論文は実際のところ何が書かれているのかなと思うわけです。それをとりあえず我慢して、淡々とそれでも翻訳を進めます。先行研究の意義と限界が示され、仮説が提示され、分析が行われる。そしてディスカッションや今後の課題が最後に提示される。後半に行くほど、正直なところ翻訳は雑になっていき、今後の課題などはほとんど捨て置かれます。

目的は翻訳ではありません。自分の論文が書けるかどうかです。引用されている論文が気になり始めれば、結局それを読むことになります。そして今度は、この全訳をはじめます。先のものと同じように繰り返し、2つの全訳論文(ただし、後半はかなり雑)ができあがります。そしてもちろん、それは3つ目、4つ目へとつながります。

3つ目、4つ目を全訳し始めることになれば、たぶん、自分の論文を書けるようになっています。というか、すでに書いてしまっていることに気づきます。これら数個の英語論文が、すでに自身の先行研究になり始めていて、翻訳文が引用文として自分の文章になっていくからです。

こうして書き始めることができた論文が、どのような着地を描くのかはまだわかりません。レビュー論文で終わることになるかもしれませんし、一つの論文の紹介論文になるかもしれません。それでも一向に構わないと思います。一個論文が書けたということが重要であり、そこから具体的な仮説や分析のアイデアが生まれてくれば、会心ということになります。

翻訳でなくても、何でも書いてみればいいと思うかもしれません。そうかもしれませんが、ゼロから何かを作り出すのは当然難易度が高いです。以前、自動書記から論文を書き始めてみたり、適当な文字の羅列から頑張ってみたりもしましたが、あまりうまくいきませんでした(それでもできてしまうという方もいるようですが)。翻訳がいいのは、極めて機械的で非創造的(いい意味で、本当はとても難易度の高い作業であるわけですが)に始めることができるという点にあります。僕のような完全日本語圏の研究者は、英語論文が書けずに日々苦労するわけですが、むしろそれを逆手にとって、修練することができるとも思います。

何かのご参考になれば幸いです。と、くれぐれも大事なことは、実際に翻訳を書くということであり、頭の中で読むだけではこの方法はうまくいきません。


2018年12月02日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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