規則に従う。身体に従う。他者に従う。

ちょっと前に、論文は形式が大事ですという話を書きました。理由はあれこれありますが、一つには、形式という規則に従うことで、自分ではたどり着けない場所に進むことができるからだということでした。その延長線上で、そういえばこれは決定の方法でもあるなと思ったと感じまして、改めてまとめ直しておこうかと思った次第です。

論文は形式が大事。

今さらなテーマでもありますが、根拠のないこの世界で、決定不能にならずにどうして決定を行うことができるのかという問いは、時々は思い出してもいいテーマでもあります。個人的に、大体の答えは出ていまして、それは以前竹野内さんに教えていただいた通り、身体と他者の二つが模範回答でしょう。行為してしまえるということ、あるいは行為に随伴する身体の過剰さは、われわれという内部と外部と結節しているポイントですので、大いに利用可能です。同様に、最初からわれわれの外部にある他者に任せることは、やはり同様に決定不能さを無効にしてしまいます。

この二つに合わせて、三つ目として、規則や形式も考えておけるのではと思います。規則や形式に従うことは(従うということが実際的にどういう意味を持つのかについてはさておくとして)、われわれの思考とは別の外部の作業です。計算してしまえるということ、計算してしまうということにより、やはりわれわれは前に進めるのではないでしょうか。考えてみれば、そういえばこの手の議論も既にたくさんあったなと思いまして、そういうことだったのかもと、遅れて気づいた感はありました。

ということでこの話どこにあったのかなと探してみましたが、もうずいぶん前なんですね。ちょっと懐かしくさえある感じ。


2020年03月24日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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