リフレクシビティ(とりあえず)について

そんなにかっこいい名前をつける必要もないのですが、ちょっと思ったことなどをメモとして。

ちょっとまえにcovid-19の記事を見ていて、ウイルスが変異して感染力の強いものが欧米で広まっていた(2020年4月ごろ)とありました。ウイルスが二つになったとして、感染力が強いものと弱いものがあるとすれば、基本的には強いものがより広まっていくことであろうことは予想されます。当たり前の話でもありますが、より強いものが広まっていくであろう、という発想は、考えてみれば自然淘汰、あるいは環境決定論的な視点です。環境に合致したもの、環境に選ばれたものが生き残って栄えるというわけです。

経営学から言えば、ここから反転して、今度はウイルスの能動性な性格を検討することになります。つまり、企業の生存や繁栄は、環境との合致にあるというだけではなく、それゆえに第一に、企業は環境に自らを合致させるべく、自らの変革を行うであろうこと。第二に、さらに企業は、自らに合致するように、環境にも働きかけるであろうことが主題になるわけです。

こうした企業認識論的な発想は、コロナのようなウイルスと対比させると示唆的だなと思います。現在の常識的な理解としては、おそらく、コロナには第一の点も第二の点もありません。コロナが変異するのは確率的なゆらぎのようなものであり、偶然その一つが環境に合致していれば広まり、合致していなければ広まらないというだけの話です。一方で、企業や、あるいは人を考えた場合には、第一の点も第二の点も十分にあり得る話になります。ここでは、まさに認識するということ、あるいは自らが意図するということが重要になります。

環境や自己を認識するからこそ、その変革が可能になります。しばしば、経営学では、理論は現実の後付けだと言われます。結果からみればそのようにみえるけれど、「実際は」どうだったのだろうか?この問いは、理論的にはあまり意味がありませんし(どちらでもよい)、コロナを考えてみれば変な問いです(コロナは多分意図しない)。しかし現実には、こう問えてしまうことこそが、第一の点や第二の点、つまり能動性と関わっていることの方が重要です。この問いを考えられることで、人は、その結果を今度は意図的に引き起こすことができるようになるからです。

ある種の変異が人に適し、大きな感染につながった。コロナは自然に、そして偶然に行ったと思われますが、変異のポイントがわかれば、人であれば、今度は意図的にそのような操作を行うことや、あるいは逆に起こらない状態を考えることができるようになる。環境に任せた偶然ではなく、意図を持って偶然を必然的に引き起こすことができるようになる。すなわち、意図的に環境に適応することも、環境そのものを変更してしまうこともできるようになる。

事実を認識することで、その事実に対して対応するということは、つまりリフレクティブになれるということです。それはこの社会の存続や繁栄の方法です。そして一方で、複雑なループを社会に組み込み、結構なリスクになっているのだろうと思います。以前書いた予言の意義も似たような印象を持ちます。

追記(2020.2.3)

コロナウイルスが「進化」しているような感じですが、記事などでは、擬人化されて能動的に描かれることが多く、恐怖を煽る要因にもなっている気がします。例えば、「感染力の強い新型コロナウイルスの英国型変異ワクチンの有効性を低下させる変異を獲得しつつある」といった場合、微妙な表現ですが、変です。コロナウイルスがワクチンに対する耐性を(能動的に)獲得したのではなく、ワクチンに耐性を持ったコロナウイルスは最初からいて、彼らがワクチンをすり抜けた(そして増殖している)とみた方が自然的です。擬人化してしまうのは人間らしさの特性ですが、過剰すぎてもいけないと思います。

この発想の続きでいうと、変異株がどこかから広がるといった視点も少し違和感があります。どこでも均等にゆらぎが生じているわけで、対策も人間もだいたい世界中同じだとすれば、同じようなタイプの変異株が各地で生じていて、各地で自然と生き残り、拡大していくことが予想されます。


2020年11月25日 | Posted in エッセイ | | No Comments » 

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