適性のようなものや才能のようなもの

なんとなく昔から思っていたことで、人には適性や才能のようなものがあるように感じます。それは僕自身も同じことで、向いていることと向いていないことがあり、才能としてできることとできないことがあるという感じです。

例えば、毎年ゼミ志望の方々と面談する機会があります。このさい、だいたい将来の希望を聞きます。決まっていないという人がほとんどですが、それでも、例えばこんなことをやりたいであったり、こういう職種を考えているという話になります。特にマーケティングのゼミということで、しばしばマーケティング職をという話になりまして、いつも感じるわけです。適性がありそうな人と、なさそうな人がいるということに。

この感覚にはちょっと自信があります。もちろん例外もありますし、この感覚は総じてうまく説明のできないものです。多分成績のようなものではないです。感覚の一部だけをいうのならば、その方がその会社やその職種で働いている姿を、話を聞いた時にイメージできるかということです。できる人もいますし、できない人もいます。その会社や職種の人になんとなく雰囲気が似ている、という感じかもしれません。

先日、ある会社の営業担当が変わったということで、新しい担当と話をしました。その話し方や、あるいは考え方が以前の人とほとんど同じであることにちょっと驚きました。それは会社で訓練された結果なのかもしれませんが、同時に、そもそもそういう人たちが集まる会社なのだと思います。就活はよく相性の確認をお互いにしているというような気がします。その意味はよくわかります。

同時に、会社で訓練されることがあるように、適性は時間の中で変わるとも思います。その時にはフィットがなくとも、何年かの訓練や、あるいは教育の中でフィットが生まれることもある。それは自然にそうなることもあるでしょうし、意図して、努力してそう寄せていくということもありそうです。その際には適正とは別に才能のようなものが生きてきて、自らが変わったり適性を上げていく力があるということなのだと思います。

改めてゼミの話に戻すと、もしかすると、現時点では自分でも適性がないことは感じているけれど、訓練すれば適性が生まれると考えているのかもしれません。今はマーケティング職につく適性はないけれど、がんばればなんとかなるのではないかというわけです。なんとかなるのかもしれないですし、ならないのかもしれません。才能によるのかもしれません。ただこれまでの経験でいうと、1年2年ではあまり変わらないような気はします。18年なり19年で培われた適性は、時間的な重みをすでに伴っています。

さらに才能があっても、訓練の中で変な方向に進んでいくこともあり得ます。会社での訓練はその際たるもので、学生の頃はとても才能があったのに、就職して10年経ち、あら?ということもあります。適性がそちらに進んだということなのかもしれませんが、その結果、ちょっと想像と違う感じになっている場合もあります。雰囲気が似ているという感覚は、その意味では必ずしも良い意味でだけ使われるわけではありません。

変な方向に進んでしまった場合、戻しようや変えようがあるのかどうかよくわかりません。多分才能があればあるほど、適性も進むのでしょう。学部ではなく、例えば年齢の上がった大学院ではこのことをよく考えます。才能をよりどころにして、適性を変えることによって総合的な可能性を開き直せるのかどうか。もう少し考えてみたいと思っています。


2022年01月31日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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