天野春果『僕がバナナを売って算数ドリルをつくるワケ』小学館/2011

こんばんは。上川です。

久しぶりのブログですが、今回は前々から読みたいと思っていたこの本について書いてみたいと思います。

みなさん、この本知っていますか?たぶん多くの人が、え?なにこの題名!と思うのではないでしょうか。バナナと算数ドリル。共通点があるようには思えませんよね。そして、さらに驚くのがこの本の内容です。

この本は、プロサッカークラブ、川崎フロンターレのプロモーション部部長である天野さんが、川崎フロンターレというチームをどのようにして発展させてきたか、について書かれています。サッカーとバナナと算数ドリル。さらに混乱してきます。

                                

実はこれ、天野さんによって行われた、フロンターレというチームが”サッカーの試合以外”でも地域と関わるためのプロモーションのほんの一部なんです。

Jリーグが1993年に出来たばかりのころ、チームは企業の所有物のようなもので、川崎市にあったクラブも地域との関わりはなく2001年には本拠地を東京に移したこのクラブは有名選手を集めることで集客をしていました。そんな川崎市に2つ目のJリーグチームとしてフロンターレが参入したのは1999年。フロンターレは富士通の傘下にあり、当時は前者と同じように企業色の強いクラブでした。しかし、前者に比べると資金も選手層の厚さも違い、結果や観客動員数においても思うような結果が残せずにいました。

そこで、天野さんはフロンターレを企業主体ではなく地域色の強いクラブにすることを志します。地域色の強いクラブとは、ホームタウンにある個人経営の商店などにスポンサーになってもらい資金を出してもらうことなどが挙げられますが、何よりも大きいのは地域に根差したクラブであるということです。

スポーツクラブにとっての主な顧客はチームを応援しサポートしてくれる地域住民なのです。
天野さんは、地域の企業にスポンサーになってくれるように頼みに行きますが、どうせ企業クラブだとなかなか相手にしてもらえませんでした。しかし、天野さんは根気よく通い続け、店頭に選手のポスターを貼ってもらったり、試合開催時にコラボイベントを行ってもらうことに成功しました。本来はサッカーをすることが仕事の選手たちも自ら商店街への挨拶回りや地元の小学校へと赴き、小学生たちとの交流を行うようになりました。

このような地域との関わり合いの一つに、地元のバナナ卸売業者や小学校の校長先生なども含まれます。これこそが、サッカーとバナナ・算数ドリルをつなぐものなのです。

(算数ドリルを作るまでの経緯が詳しく書かれているページがあるので、ぜひ見てみてください!)

天野さんは顧客である地域住民を楽しませるために、毎試合多くのイベントを開催しています。
スポーツクラブの人気というものは、有名選手がいるか、強いチームかなどに影響されることが多く、スポーツイベントは一時的であり非日常としてとらえられます。しかし、天野さんは試合以外の日常生活にもクラブと地域が関わる機会を生み出し、フロンターレを川崎市民にとっての“日常の中の非日常”という存在にすることに成功したのです。

今回は、スポーツのクラブチームという少し特殊な企業の話ではありましたが、マーケティングにおいてもやはり顧客とのコミュニケーションは重要な役割を果たしていて、いかにして顧客から求められるものを作りあげるのか。または必要と思わせるのか、Sカレにもつながることがあるのかな、なんて思いました。
そんなSカレの各チームのページです!

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齋藤孝『原稿用紙10枚を書く力』だいわ文庫、2007。

 日々文章がうまくなりたいと思っているわけですが、なかなか上達しないというのが実情です。書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局一日に数行程度しか進まないということもよくあります。何とかならないかなと思いながら、一方で、ブログや、あるいはツイッターならば一瞬で書けるわけで、この差は何なんだろうと思ったりするわけです。

 原稿用紙10枚、ちょうどいい文量だと思います。原稿用紙1枚が400字だと思いますので、4000字。ワードのデフォルトのページだと、3ページぐらい書けば4000字になるのではないでしょうか。このぐらいの文量を、ブログやツイッターを書く感じで書けるようになりたい。

 いやいや、量よりも質が大事だと言うかもしれません。しかし本書によれば、むしろ量をこなすという目標から入ることで、徐々に質が伴ってくるのだと言われています。確かに、毎日とにかく量をこなすことによって、だんだんと書くスピードも速くなるでしょうし、こう書けばいいのだという型も分かってくるように思います。文章がうまくなりたいのならば、とにかくたくさん書くことだ、というのは一理ありそうです。

 たくさん書く、さらには質のいい文章を書けるようになる練習として、3つのキーワードを抽出し、その上でそれらをつなぐ論理を考えてまとめるというのも、面白い方法だと思いました。昔、自動書記のようなことを遊びというか練習でやっていて、とにかく適当に書いた一行目からはじめて、連想を広げて好きなことを書いてみるということをしていました。これだと、キーワードが1つしかないので、本当にどうなるか分からない。けれども、3つのキーワードを最初に思い浮かべて、それらをつなぐ論理を考えていけば、かなり安定的にいろいろなことを書ける気がします。

 なんにせよ、人のことは言えませんが、文章を書くというのはとても難しいことです。にもかかわらず、文章自体は誰でも書いたことがあるわけで、書けるわけです。多くの人は、それを特殊な能力だと思っていないような気がします。文章の書けない人のいかに多いことか。。。訓練することがとても大事なのだと思います。

 誰でも走ることはできますが、100メートルを9秒で走ることはほとんどの人にはできません。おそらく文章を書くということも、いい文章を書くことは、ほとんどの人にはできないことだろうと思います。そして重要なことは、ここでいう「いい文章」というのは、ノーベル文学賞を取るレベルのことではなく、原稿用紙10枚を書くレベルのことなのではないかと思った次第でした。

ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』ブロンズ新社、2013。



ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』ブロンズ新社、2013。

 絵がかわいい。

 ついでに、ストーリーもいい。りんごに兄弟がいるかもしれないというくだりなどは、小さい子どもは絶対喜ぶと思う(この手のネタは、古今東西、こどもうけがいい)。

 あと余談として、大人も考えさせられる。どうして僕たちは、りんごをりんごとして知っているのだろう。常にそれは、りんごかもしれない存在であり、そうではないかもしれないはずにもかかわらず。触ってみても、ぐるぐる見回してみても、それから割ってしまったとしても、それは依然としてりんごかもしれないし、りんごではないかもしれない。

 もちろん、単なる懐疑の世界に入り込みたいわけではない。個人的な興味は、一つには、その懐疑の世界にあって、どうして僕たちはこれをりんごだと確信しているのかという論理であり、もう一つは、その懐疑の世界にあって、新しいものや価値を作り出すためには何ができるのかという論理である。

 一つ目の論理は、りんごはりんごであるというトートロジーな循環の中にある。絶えず問い直し、別の可能性を見いだしてもなお、それはりんごであるという強度。あるいは、やはりそれは流通の中にある。誰にとっても、それはりんごであるという強度。そう考えれば、もう一つの論理は、そうした循環や流通において見いだされるりんごではないかもしれない可能性を拾い上げ、合わせて、その可能性に別の名前を与えることとして捉えられるかもしれない。ブランド。

 といったことを考えさせられました。あとやっぱり最後のオチがとてもよかったです。りんごかもしれないという問いは、これはりんごであるorりんごではないという答えを要請しているわけでは、まったくない。思うに、こどもは、意外にも、このオチに耐えられるけれど、多くの大人は、耐えられない。

村尾隆介「安売りしない会社はどこで努力しているのか?」

こんにちは。松浦です。

普段あまり読書をしないので抵抗があった書評にチャレンジしてみます。(笑)

本屋へ行き、本書を手に取ってバーッと目を通すと、まだ読みやすそうなのと、表紙の質感が気に入ったのでこれにしようと思いました。
 

本書は、「価格」を下げずに、「価値」を上げる。ということを強調して書かれています。まず始めに低価格によっておこる問題がいくつか書かれていました。特に納得した問題が「アイデアのない会社になる」ということで、ちょっと高くても買っていただける工夫をできることが会社自体にビジネスの力が育まれると書かれていました。次にプライシングや「価値」をどのようにあげるかについて述べられていました。スキミングとペネトレーションという手法について少し述べられており、ペネトレーションについては、フリマアプリのメルカリが昨年に出品者側に手数料をかけはじめたのがこの戦略なのかなと個人的にと思いました。また、値付けの仕組みを変えることで成功した会社の話が面白かったです。後半は題名の「安売りしない会社が、普段からどんな努力をしているか」について述べられていました。主に会社やスタッフ、組織性について述べられていました。いい会社というのはスタッフも仕事に対してやはり同じベクトルを向くものなのかと考えました。

 

全体を通して、マーケティングに関する本を読んだのが初めてなせいか学ぶことが多かったです。経営者向けの本であるためか、会社をよりよくするヒントが多数書かれていますが、中にはすることが難しいことも書いてありました。ライフタイムバリューなんかは大きな会社である程度余裕のある会社でしかできないのでは?という気がします。また、スタッフについても、従順で素直のスタッフなら話は簡単だと思うが、現実では様々な人間関係や他の問題が生じると思いました。しかし、経営者がスタッフに気持ちよく仕事をしてもらう環境をつくることは大切ですよね。

本書では、基本的に難しいことは書かれていません。納得できることが多く書かれています。少し経営に心配を抱いている人が読んでみると、なにか変えてみようかと思うヒントが書かれていると思います。

 

最後に関連しそうな本を張っておきます。読んだことはないですけど!笑

会社を元気にする51の仕組み



      なぜか売れるの公式

筒井淳也『仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、生みにくいのか』中公新書、2015。



仕事と家族 – 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)

イクメンよろしく、このところ日本でもつとに重要なテーマとなってきた「仕事と家族」。まだまだ男性が働き、女性は家事をするというスタイルが強い中、その変更の方法と、そもそもそうした変更が必要なのかどうかという問題は、長期的に考えるテーマだろうと思います。

本書で示される世界情勢は、その多様性を垣間見せます。日本遅れてるね、という話ではなく、まずもって男女が共に働く社会としても、アメリカ型とスウェーデン型ではその仕組みが異なるということ。また、男女分業的な日本に似た国々も存在しているということ。選択肢はいろいろあります。

男女が共に働ける社会を作るためには、もちろんそのための制度を作る必要がありそうです。ただ、より大事なことは、そうした制度を作ったほうがよいと考える人と、そうは考えていない人々(抽象的には、これこそが「制度」でしょう)がいるということが大事そうです。僕たちが抱く「家族とはこういうものだ」という「制度」こそが、個人的には変更されるべき対象だと感じます。

「要するにこういうことである。家族が担ってきた機能を(政府にしろ市場にしろ)その外部が担うことは、家族の負担軽減につながる。そうすると、家族そのものをつくり出すカップル形成と出産という二つのライフイベントが生じやすくなり、結婚後の介護不安なども緩和される(170頁)。」

個人的に興味深かったのは、どうして家事の分担の平等化が進まないのかという点。経済的な理由をはじめいろいろと指摘されていますが、家事のスキル格差という点は、そうかもと思いました。特に食事に関しては、本格的に作れるようになるためには時間がかかります。この時間は、出産を前後した期間程度で追いつけるわけではない。夫が変に高いものを使って食事を作り始めたりして、妻としてはいらいらして、もういいわ!となる(笑)。逆に言えば、「食事には手間をかけるべき、それこそ家族である」という制度は日本で特に強固であり、海外ではこの感覚があまりないために、食事機能を外部化することも夫が担うことも容易だったのであろうというわけです(184−185頁)。

海外の研究でも、食事は家族アイデンティティの形成にとって重要な儀礼の一つであるとされていた気がしますが、それも一枚岩ではないのかもと思いました。エンプティーネストの研究で、奥さんがご飯を家で作るのを止め、喪失感と共に自分の時間を取り戻す的な話ありましたよね。。


久米 郁男「原因を推論する — 政治分析方法論のすゝめ」、有斐閣、2013。

※書評を書くためにはまずは本を読まないといけないので、難易度は高いところ。率先しまして一つ。先日たまたまtwitterで流れていたので注文してみました。

われわれとは分野の違う政治学ではありますが、経営学や商学、あるいはマーケティングと同じような研究方法の議論があったことがわかります。一番平たい言い方をすれば(誤解を恐れず!)、定量的調査と定性的調査の対立ですね。

本書の後半では、定性的調査の可能性についての研究がいろいろと紹介されています。「少数事例を扱い、その緻密な記述を特徴とする事例研究は、必然的に「原因」と「結果」に関する仮説の検討を行なわない論理の曖昧な研究になるのではない(221頁)」というわけで、例えば仮説演繹による条件の固定であったり、決定的事例分析(反証)などが紹介されています。このあたりはわれわれも学ぶところが多いです。

個人的には、定性的調査なり事例研究が意味を持つのは、一つには、当の「原因と結果」の一般性が、現実には受け入れられたり受け入れなかったりするという点を考察できるからかなと思います。ただ、それは結局、「原因と結果」に対するコントロール変数を新しく見つけている探索的な過程かもしれません。

そこでもう一つとして、定性的調査や事例研究では、当の「原因と結果」の一般性が現実に出来上がっていったり失われていく点を考察できるという点も重要かと思います。社会における法則性は、自然法則とは異なり、選択の余地があります(これは一つ目に対応)。と同時に、やはり自然法則とは異なり、生成と消滅がありえます。この後者の点は、定性的調査や事例研究、というよりは歴史研究として、独特な価値を有するのかなと思う今日この頃です。

 

中原淳他『人事よ、ススメ!』碩学舎、2015。

 2013年の春から夏にかけて、慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC)にて、例年のとおり中原先生をコーディネーターとした人気講座「ラーニングイノベーション論」が開催された。本書は、そこで行なわれた12講を一冊の書籍としてまとめたものである。ちなみに中原先生はこちら↓

大人の学びを科学する nakahara-lab.net

写真:株式会社 Trinity

 教育をテーマにした授業や本は面白い。というのも、これはメ・タ・的だからである。教育をテーマにした授業では、教育(の方法)を、その方法を使って教育するのだ。そうそう、と思った人は、きっとそのまま教育に向いている人であろうし、はて?と思った方も、まずはこの面白さを感じるところから勉強を始めることができる。

 本書(あるいはベースになった授業)は、このメタ的な側面がとても意識されている。一つ一つの授業が、この本でいえば一講一講が、それ自体、受講者がそれぞれの現場に戻った後に利用可能な教育の方法である。例えば、松尾先生の反転授業を通じて反転授業を学ぶことで、その後、自分でも反転授業を行うことができるようになる。あるいは、高尾先生のインプロ授業を通じてインプロを学ぶことで、その後、自分でもインプロを行なうことができるようになる(さすがに本でインプロするのはちょっと難易度高いかも)。ラーニングイノベーションが意味するのは、人材開発に携わる上で、こうしたメタ的な側面を身につけるということだろう。

 教育論は、理論重視(やり方をしっかり教えよう、学ぼう的な)と実践重視(現場の中で師匠の業を盗むのだ的な)を揺れながら発展してきたという。本書の12講もまた、これらの両極を意図的に行き来しながら議論が進む。けれども、たんに2つとも大事だということが結論にあるわけではない。より重要なのは、これらの議論を通じて、そうしたメタ的な側面を丸ごと理解するということである。

 もしかすると、メタ的な側面は、教育の授業に限らないのかもしれない。例えば、マーケティングの授業でも同じことを考えられる。マーケティング活動では、細かいところはいろいろあるものの、総じて「この商品は良いものですよ」と伝える必要がある。ということは、マーケティングの授業では、この商品は良いものですよというための方法を、実際にその方法を使うことで、「ほら、この授業は良かったでしょ」とわかってもらうことになる。どうやら、教育は、総じて、これは大事だよ、と言うことを伝えることになる。このとき、「これ」という対象と、「これは大事だよ」という行為が、入れ子というか再帰的というか、そういう構造をとる。

 だからしばしば、おまえが言うな的な、つっこみもありうる。ただ、この点では、教育を授業する時の方がシビアだろう。マーケティングができなくとも、マーケティングの方法を教えることはできる(と、、思う)。けれども、教育ができなければ、教育の方法を教えることはできない。本書の登壇者たちは、その緊張感を感じながら、その緊張感自体をうまく伝える術があったように感じる。

 あるいは逆に、このメタ的なセンスのようなものが身に付くと、今度は、どういうつまらない授業を聞いても、面白く学ぶことができるようになる気もする。授業の中で、中原先生が運転免許の講習を受けた話をしていて、普段は面白くないのだけど、今回は気分を変えて「これは面白い面白い、へーそんなことあるんだ!マジか?知らなかった!」といちいち驚きながらメモをとって受けるようにしたら、めちゃめちゃ面白くなってすぐに時間が経ってしまったという。ようするに、そういうことかなとも思った次第(これは、、本にも残ってましたかね?)。

 本を読むかどうかまよったら、まずはブログから見てみるのがはやい。無料ですし → 大人の学びを科学する


それでもものを欲しがる習慣

 大学生の時にゼミで読んだ本の一冊に、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』がある。とても印象深い本で、生産のための消費(何かのための消費)から、消費それ自体を目的とする消費の重要性を説いた本、だった気がする。うろ覚えだが、明日働くためにご飯を食べるというのは本末転倒していて、むしろ、食べるという消費行為自体をそれとして楽しむこと、その極として、茶道のような活動が見られる事になる。

 その後いろいろと本を読んだり、あるいはビジネスの話を聞くようになる中で、90年代には、「もの」から「こと」へというスローガンがたくさんあることを知った。今でも、マーケティングプランの一つとして、もの重視からこと重視へ、といった話は当たり前のように登場する。あるいは、ものではなく体験をといったような話も、同じ系統なのだろう。

 ものからことへという発想はよくわかる。けれどもその一方で、僕たちは、あまりにモノベースの発想に慣れてしまっているし、そういう圧力が社会的にあるようにも感じる。日常の生活でも、あるいはビジネスの現場でも、「で、答えは?」「で、どうしたらいいの?」と問い返すとき、何のことはない、僕たちは「答え」というモノを欲しがってしまっている。消費それ自体を楽しもうとするのならば、その問いはそもそもあり得ないはずだ。

 仕事は仕事、遊び(消費)は遊びということで分けた方が良いのかもしれない。けれども、元々の発想が生産のための消費を止めようということであったとすれば、消費のための生産もまた不毛であろうし(何も無理して消費自体を楽しむ必要はない)、ひいては、両者を別々に考えない方がいいということにもなるだろう。仕事の中にも、こと的な楽しみを見いだせた方が面白い。

 この点、研究という仕事はまだちょっと恵まれていて、答えに至らないようなぐだぐだとしたプロセスを楽しめる風潮がある。最後まで答えに至らないとそれはそれで困ってしまうが、あーでもない、こーでもない、そういえばこんなことが、あんなことがと考えたり話すプロセスが許されているように思う。この傾向は、日本的なのかもしれない。日本の論文やプレゼンは結論が後に来るから特徴的だよねと先日言われたけれど、ようするにそういうことかもしれない。

 仕事においてもプロセスを楽しんだり、プロセスを重視するような何かができるようになれば、面白いかもしれない。生産性が最終的に上がるのかどうか(つまり、モノが生まれるかどうか?)はわからないけれど、しばしば良い会社として取り上げられるようなところをみていると、そんな気もする。

書評の仕方ルール(2014年11月版)

書評を書く場合の覚え書き。 

1。文字数は無制限。ただあまり多くても読めないので、A4で1枚程度、1500字ぐらいが一つの目処。 

2。取り上げる本、論文は自由。ただし、マンガは除く。文章中心のものであること。小説でも構わない。絵本は微妙なところ。

3。書く内容は、経営学全般、マーケティング、および消費者行動や消費文化という観点から書くこと。2の取り上げる本が何かよりも、こちらの分析視点が重要。 

4。書く内容に合わせ、関連する書籍を観点に合わせて2冊以上ピックアップすること。こちらの書籍は実際に読んでいなくても構わないが、具体的にどう関連しそうかについては別途調べておくこと。 

5。書く内容に合わせ、写真や画像を積極的に用いること。但し著作権や肖像権に留意し、他のサイトの画像をそのまま無断することはしない。 

6。書く内容に合わせ、リンクによる引用を積極的に用いること。こちらも著作権に留意する。

7。取り上げた本、および関連する書籍については、画像データをアマゾンを中心に取得し、リンクをはること。

なかやみわ『どんぐりむらのぼうしやさん』学研、2010。

素直に読んだ方がいいのかもしれないけれど、マーケティングマーケティングと思って読んでしまった一冊。どんぐりーぼうしというのはいいつながりだし。この手の小説はあんまりあらすじをここに書いたら駄目だと思うけれど、ストーリーはマーケティング的で、村で売れなくなったぼうしやさんが、都会にでて学ぶという感じ。

いくつか印象深く、例えば、僕だったら、、と思うところがいくつもあった。(まあ、子どもはこのホームページを読まないだろうから、読み手の両親が内容を知る分にはいいのかも、というわけで、すいませんが少し中身を。。。)。

1.冒頭で、村で売れなくなって、お客さんに販促しているシーン。お客さんは「まあ一個あるからね」と答える。さあ、この答えは、マーケティングとしては何を意味するだろう。

2.街にでると、それまでとは違うタイプのお客さんがやってくる。あ、どんぐりしかいないのかと思ったけれど、と世界が一気に広がる気がしました。さあ、それはやっぱり、マーケティングとしては何を意味するだろう。

3.ネズミさんがたくさん同じぼうしを買ってくれて、これがお店にとっても転機になる。でも僕ならば、ここは!と思うところでもある。もちろんそれはそれでありだけど、そっちにいったか、、、という感じ。さて、それは?

なんてことを思った次第。

関連しそうな本?やっぱりこれです。マーケティングを考える方法はいろいろある。