自殺志願サイトをどう理解するか
1 完全自殺マニュアル
昨今、海外でも日本でも、自殺志願サイトで知り合った人々が集団自殺するというケースが結構報道されてます。そういえば車に乗って練炭自殺というやり方も、ネット関連で広まったように思います。もっと昔の話だと、Dr.キリコ事件とかあった気がするけれど、もはやそういうことがレアなケースではなくなってきているのかもしれません。
ということでして、今回は、この自殺志願サイトについて、少し考えてみようかと思う次第です(というか、昔書いたメモをHDD内で発見したので、ちょっと書き直してアップしておこうかなと)。もう少し具体的にいうと、自殺したいという衝動と、インターネットをしたいという衝動?が、実は結構似ているのではと思ったりしたわけでして、最近の研究興味であるネット・コミュニティとも関連して、このあたりを少し予備ノート化しておこうかなと。とはいえまあまあ、論文じゃないので、少し回り道をしながら蛇足的にあれこれ。
まずは昔。10年以上前、もちろんインターネットなんてものが存在する以前に、結構話題になった一冊の本がありました。『完全自殺マニュアル』、ご存知の方も多いと思いますし、面白半分で購入した人も多かったようです。ベストセラーでした。内容自体は、タイトルのとおりで、自殺したいときに、どうしたら手軽に、また確実に、死ぬことができるのか、ということを書いてある本でした。
この本は、当時、かなりの賛否両論の議論を巻き起こしたようです。まあ当然ですが、この本を読んで実際に自殺してしまった人がいたりしたようで、社会的に問題があるのではないか、とか、そういうことですね。自殺を勧める本なんてものは、確かにちょっと問題があったのかもしれません。 とはいえ、一方で指摘されていたのは、この本は、決して自殺を勧める本ではないということでした。タイトルからして自殺を勧めているのに、なにゆえ、と思うかもしれませんが、理由は簡単です。この本を読めば、確かに、いつでも方法として死ぬことが可能になります。最近の練炭じゃないけれど、まあそういう類がマニュアルとして書かれているわけです。とすると、この本を読んだ人はどうなるか。おそらく、それでは死のうという人は少ないわけで、むしろ逆に、これでいつでも死ねるのだから、それでは今日は生きてみよう、あるいは、ちょっとがんばって勝負してみようという気持ちになるのではないか、というわけです。
これは、必ずしもおかしな論理ではないと思います。いつでも死ねる、だから、死のうという論理と、いつでも死ねる、だから、今日は生きようという論理は、どちらかが間違っているというものでもないようです。神は存在しない、だから、神は「超越的に」存在する、という類ですね。
ということで、蛇足的な話からはじめましたがこの本から10年以上たち、今、インターネットの普及の中で、改めて自殺に関する知識が提供されるようになってきているというわけです。で、前回よりもなかなかに問題となりそうなのは、一つにはその情報量の多さであり、情報伝達範囲の広さであり、深さであると思います。そしてもう一つ問題となりそうなのは、その情報が共有され、自殺志願サイトというなんとなくへんてこなコミュニティが形成されているということです。このとき、かつてとは異なる何らかの問題が生じるのかどうか、あるいは、もっと別の可能性がでてくるのかどうか、ちょっと考えてみたいと思うわけです。
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前回はちょっとまえふりという感じで、あんまり本題とは関係のない話を書きました(笑)。まあ参考がてらという感じです。そこで今回は、さくっと本題について考えてみたいと思います。それは、あの世という世界と、インターネットという世界についてです。ちなみに、これらを考えるときに重要になるのは、いずれも、この世との距離、です。
まずは、あの世からいきましょう(というか考えましょう。。)。あの世は、あたりまえですが、この世ではありません。あの世は、この世と陸続きなわけではなくて、「三途の川」として形容される物理的断絶を越えた世界、この世の彼岸、この世の向こう側として存在するということになります。そして、我々は、実のところこの世の住人であって、結局その向こう側に行くことはできません。だから、あの世とは、どこまでも想像上の世界、つまりはどこにもない世界でありつづけるということになります(まあ、人によっては超越的な方々もいるようですが、それはさておき)。ようするに、この世に住む我々にとって、あの世とは、実はバーチャルな世界だというわけです!
ひるがえって、インターネットの世界はどうなのでしょう(もういうまでもないですが)。例えば、現実世界でなかなかうまく生活することのできない引きこもりの人々がインターネットに活路を見出したように、インターネットの世界もまた、この現実世界とは一線を画す空間だと考えることができます。もともと、バーチャルな世界のイメージというのは、インターネットにこそマッチしています(余談ですが、このバーチャルというのは、このサイトテーマのバーチャルとは少し意味が違います。どうでもいいことながら)。そしてさらにいえば、確かに我々はインターネットの世界を見ることができますが、誰もインターネットなる世界の真の住人になることはできません。もしなりたいのならば、我々は電子かなんかに分解されなくてはならないでしょう。公安9課をイメージしてください。
というわけで、ひとまず見えてくるのは、あの世とインターネットの世界としての類似性です。どちらも、この世の対として、しかもバーチャルという形の対として存在していると考えることができそうなわけです。あの世に憧れる人々と、インターネットに憧れる人々、これらには、ちょっと共通したところがありそうなわけです。そしてそう考えると、自殺志願サイトというのは、あの世に憧れる人々のインターネット上での集まり、という同じような世界が二重に折り重なった世界だと考えることができるようになります。これにどういう意味があるのかはよくわかりませんが、ひとまず、自殺志願サイトがなんらかの魅力を持つとすれば、それはこの二重性に何かあるのかもと、思ったりもするわけです。
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繰り返しておきます。あの世という世界とインターネットという世界、この2つの世界は、いずれもこの世ではないという点において同じ特徴を有しております。だから、自殺志望の方々が、つまりあの世志向の方々が、インターネット世界で結びつくことがあるというのは、その類似性から少し考えることができそうな気がするわけです。
とはいえ、ともにこの世ではないからといって、それだけで自殺志願サイトの特徴がはっきりするわけではありません。というのは、もしあの世の世界とインターネットの世界が単純に同じであるというのならば、あの世を希望する人たちはインターネットの世界で単純に満足するはずだからです。要するに、代替可能だということですね。死にたいと思っていた人たちが、まあインターネットでもいいやということになるはずだというわけです。
もし本当に代替可能であるのならば、自殺志願サイトに問題はほとんど存在しません。というか、むしろ、自殺志願サイトはとても「優れた」サイトだということになるでしょう。あの世の代わりにインターネットを用意することによって、自殺を止めることができてしまうということになるからです。もちろん、これは実際的ではありません。全面的に否定するわけではありませんが、そもそも、自殺志願サイトが問題であったのは、なによりも、これが自殺を促進する、という可能性があったからのはずです。
とすれば、ここでもう一つ重要になるのは、類似性ではなくて相違性のほうです。あの世の世界とインターネットの世界は確かに似ている、けれども、少しどこかが異なっているというあたりが、ここでもう一つ考えておかなくてはならないことになります。
その違い、それは、あの世の世界とインターネットの世界が、実際のところ、この世と「どのくらい」離れて存在しているのかという点にあるかと思います。どちらもこの世ではないわけですが、しかし、どのくらいこの世ではないのかということについては、温度差があるというわけですね。それぞれ考えてみます。
まず、あの世というのは、この世の絶対的な彼岸であり、あの世の住人がこの世へ戻ってくることはできませんし、そもそも、この世とあの世には究極的には関係がありません(まあ人によってはあるわけですが。。。)。に対して、インターネットは、この世の一部分だといってしまうことも可能な世界でして、当然、行き来することも可能です。というよりも、インターネットの世界はあくまで現実に対する仮想空間なわけで、いつでも、我々はこの世に帰ってくることができるし、また帰ってこなければならないわけです。
としたときに、あの世の世界とインターネットの世界には、程度の差が存在しているということになります。イメージとしては、一つの軸に対して、両極にはこの世とあの世が設置され、インターネットの世界はその間のどこかにあるという感じでしょうか。そしてさらにいえば、あの世とインターネットに関しては、この世との関係、つまりは距離において理解されるという共通点を有しているわけです。
このように考えると、自殺志願サイトの問題点がみえてきます。あの世を志向する人々にとって、インターネットという世界は、より行きやすい体験版あの世的な存在としてあると考えられるのです。そして、そこでの体験は、何らかの媒介によって、スームズにインターネットからあの世に流れ込む仕組みになっているとみておいたらいいでしょう。
実は、このイメージについていえば、消費論において同じような話がでてきます。「置きかえられた意味」という話でして、『消費と文化とシンボルと』に書かれていますね。この「置きかえられた意味」は、なぜ我々の消費行為がとどまることをしらないのか、ということを説明しようとしています(多分、違ったかな)。
この場合に想定されるのは、現実と理想、そして、現実と理想のギャップを埋めようとする消費行為の存在です。本題に関連づけておくとすれば、ここでは理想があの世ということになるでしょう。どちらも、やはりこの世ではない世界を志向しています。あの世に憧れる人々は少数かもしれませんが、理想に憧れない人々はほとんどいないと思います。とはいえ、理想は理想である以上、直接的に克服することは困難です。というか、理想は現実ではないからこそ理想ですよね。そこで、理想を現実的なレベルにおいて解決してくれるような媒介が必要になります。ここでは、その役割を消費が担っているわけです。モノやサービスを消費するという行為は、つまるところ、理想に実際に近づこうという作業であり、しかし理想は現実外として想定されるために、目的は常に達成されません。我々は、消費行為を通じてつかの間の理想を手に入れるのであって、そしてまた、こりもせずにまた理想を求めて消費を行うと。結局、自殺志願サイトも同じようなものだと思います。この場合は、あの世という理想を現実レベルに落として展開しようとするつかの間の消費行為ということになるのでしょう。
とはいえ、この消費行為がちと厄介なのは、直接的にあの世を志向していくメカニズムが組み込まれてしまっているということです。それがおそらく、コミュニティという問題です。このあたりはほとんど推測の域をでませんが、コミュニティの存在は、自殺志願サイトがあの世の一歩手前で留まろうとするときに、その背中をちょっと押してしまうようなところがあるように思うのです。
というわけでして、ひとまずこの話は終わりにしたいと思います。これからがいいところじゃないか、というかもしれませんが、コミュニティをどう理解するのかについては、もう少しまじめに議論したいと思っていますので。。。少なくともここでいえるのは、自殺志願サイトを理解する際には、あの世とインターネットの類似性と相違性を考慮しておく必要があるのではないかということであり、同時にそこにコミュニティという問題が入り込むとき、自殺志願サイトが危険なものとなる・あるいは新しい可能性になる(これについては、今一度『完全自殺マニュアル』を参考ください)と思うわけです。