バンプとスガシカオのプラネタリウムについて

2つのプラネタリウム

以前書いた記事をせっかくなので少し新しくまとめておこうかと思いまして、ちょっと書き足してみました。忘れてしまっているところもあったので、そのあたりは思い出しながら、それから適当に分量をふくらませながらというところです。たぶんオリジナルは、2008、2009ぐらいにかいたのではないかと。

さて、事の発端はituneで音楽を聞いていたことでした。あまり気付いていなかったわけですが、なにげに名前でソートしてみたら、そういえばプラネタリウムというタイトルの曲が2つ入ってるなと思ったわけです。bump of chickenとスガシカオ。おぉそうか、と曲のイメージも思い出せる好きな曲だったというわけですが、少し考えてみると、歌詞の内容も近いようで、しかし、遠い感もあり面白い。これを少し分析しようかなと。音楽評論なんていうわけでは決してなく(先に防御を)、個人的な感想ですが。

バンプの方は、4畳半に自作したプラネタリム。急に思い立って作り始めた即席のもので、最近であればあれですかね、自宅用プラネタリウムで売っているようなもののもっと簡易なバージョンを作って見たということでしょうか。狭い部屋を広げたい一心で作り始めたというが、これはこれで楽しそう。内側に発行する電球なんかをセットして、外側にカバーをかぶせる。かぶせたカバーに適当に穴を空ける。光を灯すと、空けた穴から光がこぼれて、天井や壁に光を映し出すというわけですね。うまく穴を空ければ、星座を作ることも出来ると。もちろん、歌詞からいけば、狭い部屋は私の心や世界を反映していると考えられますので、もっとネガティブな感じなんでしょうけれど。

そんなこんなで作られた即席で自作のプラネタリウム、当然自作なので、いかようにでも作り込むことが出来るわけです。それでいて、部屋の明かりを消して、プラネタリウムを点灯させれば、宇宙を実現することが出来る。自らが作り出す宇宙。製作者は神としての立場を感じることも出来る。歌詞にもあるとおり、「窓は一度も開けないままで 僕は全てを手に入れた」

自作ながら構築された宇宙の中で、もっとも重要な位置を占めるのが一番眩しい星として用意された「君」です。それは、自分でアレンジして作った星であり、僕だけの星。彼にとっては、世界を手に入れたということよりも、「君」を手に入れたことが最大の成果だと考えられます。

それで終われば空想世界の充実感で満たされておしまいなわけですが、彼はその星に手を伸ばしてしまいます。自らが創り出した無限の宇宙、その宇宙に自らが触れようとするとき、その宇宙は途端に有限としての性格をあらわにすることになります。すなわち、「君」に「触れてしまう」。ここにありながら、宇宙である以上無限であり、遠く遠く、触れられないはずのものに、触れてしまう。

触れてしまった「君」は、もはや宇宙にきらめく星ではありえず、単なる4畳半の天井の点に過ぎません。と同時に、その触れてしまったというリアルな感覚が、自らの創り出した無限の宇宙が結局は思い込みの世界でしかなく、全てでも何でもないことを露呈させるわけです。それは後悔でもあり、「やめとけばよかった」ともいわれる。

自らのつくりだした幻想としての「君」に触れてしまう=現実を感じてしまうことを通じて、しかし、彼は窓の外に現実があることを思い起こします。「君」の存在は、彼自身の内側の世界と、彼が生きる外側の世界の結節点の役割を果たしているように見えます。それを探すとき、プラネタリウムが生まれるとともに、プラネタリウムは破綻する(現実に直面する)。それは常に、僕の幻想でありつつ(その名前や場所は僕しか知らない)、同時に、現実として僕の幻想を常に超えて存在する。

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さて、スガシカオの方はというと、もっとどんよりとした感じです。先のプラネタリウムは、僕と世界に区分されて僕の側に存在しつつ、「君」を通じて世界へとつながっていたわけですが、このあたりの境界があいまいにされている。
まずもって、「星はまるでプラネタリウム」。空に見える星というリアルな存在と、そのコピーとしてのプラネタリウムという関係がひっくり返されて、リアルな存在であるはずの空の星が、まるでプラネタリウムのように見えてしまう。それは、人工的に構築された渋谷のネオンがそのまま空に映し出されているようにもみえる。
さらに輪をかけてあいまいなのは、バンプの時にはもっとも輝く存在であった「君」。「君」の存在は相当にふやけてしまっていて、風俗のポスターが「君」に見えてしまったりしている。あるいは、まち金のビラを配っている女の子をみて、「君」に似ているなんて思ってしまう。僕の世界を象徴的に支え、リアルとの接続を可能にしていた「君」とは異なって、スガシカオの「君」はどこにでも偏在していて、どれにせよあいまいなことこの上ない。
そして最後のオチとして、「本当は目が悪いから、星はよく見えなかった」。すなわち、まるでプラネタリウムのように見えていた星々も、目が悪いから実はほとんど見えていない。これはそのまま「君」にもあてはまり、「君」もまたよく見えてないということを示していると思う。プラネタリウムのように見える世界、それは、僕の世界でもあり、リアルな現実でもあり、どちらでもありえてぼんやりと存在している。本来は二つの世界をつなぐはずの君もまた、ぼんやりとした存在であって、時々君のように見え、時々自分に気付いたりもする。そのときには、手が汚れていることも感じたりする。
だが、もっとも大事なことは、そうしたあいまいな感覚においても、「何か許された」気はする。ふと「君」を思う。変な連関で世界を想像してしまう、その瞬間は、決して嘘でも何でもなくて、許された感じがする。何か世界との関係をかろうじて僕は保ち、生きていけるような気がする。そんな感じではないかと思います。
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どちらもとても好きです。強いていえば、バンプのそれは、若く、弱さの反転として強さへともつながる力強さがある。対して、スガシカオのそれは、決して強いわけではないが、しかしべったりとつぶれてしまうわけでもなく、かろうじて何か形を保っている。年齢的には、後者がはまるのかもしれない。
あるいは、無駄に難しく話をすれば、バンプのそれは否定神学的な反転の構造を持っていて、ネガがそのままポジに移し替えられる。起点になる「君」の存在は確実に一つであって、これをテコにすればいい。対して、スガシカオのそれは、郵便的?という感じで、「君」の存在は複数で、頼りなく、反転の契機が今ひとつ見いだせないようになっている。だが、反転そのものが不可能なのではなくて、その契機自体は常にあるというか、どこにでもある。
二つの間は微妙なのかもしれません。あんまりないのかもしれない。それでも、曲のメロディなどを考えると、いわゆるメロコア?の強さと、一方でジャズバラード?(このあたりはよく知りませんが)のまったりとした緩さという違いもある。テンポの違いは、確実に、世界観の違いを示している気もする。
なんてことを考えながら、僕は、昔書いたけれど消えてしまった文章をこうして改めてアップロードすることで、この文章がいつかどこかを経由して彼らに届けられ、サインの一つでももらえることを期待している。これは、バンプ的でしょうか、それとも、スガシカオ的でしょうか、あるいは、なんのことはない、意味のないことでしょうか。僕にもよく分かりません。

2011年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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