踊る大捜査線3を見ての感想

<面白かったですよ>

踊る大捜査線3を遅まきながら見ました。賛否両論あるようですが、個人的には面白かったです。あんまりマニアックに見ているわけではないので、雑感です。

確かに、映画のストーリーとしては、詰め込みすぎた感もあり、ちょっと難しい。一度見ただけでは、とても全体像は把握できないと思いました。でもこれは、すでに2のときもそうでした。こういう映画なのだと思う。何度もマニアックに見てください、答えがつながらないばらばらのサブストーリーもたくさんあります、と。だから、あわせて、やたらに多い出演者の数も、同じこと。もう慣れたもので、別に気にならない。むしろ、この映画らしくていい。

そもそも、10余年の中で、ここまでスピンオフがたくさん成立し、シリーズ、ファミリーを構成したドラマはそうそうない気もします。最近は増えているのかもしれないけれど、こういった中で、拡散して展開されるサイドストーリーを集約し、本編として展開していくことはとても難しい。集約する 必要自体、あるのかどうかよくわからない。
ドラマというよりはアニメですが、ガンダムなんかを見てみればわかりやすい。正史に直接つなぎ、展開をすることはかなり難易度が高い。サブストーリーのほうが盛り上がったりさえする。ターンAのようなやり方は奇抜でなるほどという感じでしたが、あるいは最近やっているUCも正史になるのですかね?さすがに見ていないので知りませんが。。。(^^;

<ゼロ記号的ですね>

そんな中で今回面白かったのは、やはりワクさんがいないということだったと思います。これもまた、今回の映画では定番の指摘でした。少なくとも、僕が事前にネットで情報収集した限りでは。

ただ、いないからダメだという話も多いけれど、個人的にはむしろそれがよかった気がします。いたほうがもちろん面白かったのかもしれない。それはそうですが、それは仕方がない。いなくても、あるいはいないからこそ、彼を中心にして話がまわっているということが、何よりも面白い。昔風にいえば、ゼロ記号。彼に関わる言葉や、アイテムや、それから人々が動くことで、彼が生まれ、話は展開していくという感じです。(そういえば、人が事件を起こすのではない、事件が人を起こすのだと映画の中でも言ってましたね。)

1や2が特にそうでしたが、踊る大捜査線は、インターネット時代にシンクロしたテーマを展開してきたと思います。それは、なんというか中心がないというか、すべてがふわふわした感じで展開していくというイメージです。1はストーリー自体が人違い誘拐を中心にしてますし、2では中心のない組織が積極的に語られています。このふわふわ感は、個性の強いキャラクターによって、物語に緩やかにつなぎとめられていた(だからこそ、スピンオフもしやすかったといえるかもしれません)。

それに対して、今回は、むしろそうしたふわふわ感を強力に拘束するキャラクターが用意されています。一つは真犯人であり、これは表向いて物語のふわふわ感を拘束する。しかも、やり方としてはアニメにありがちな「死」をもって世界に対抗するという典型的な物語の拘束の仕方をとる。と、もう一つがワクさんで、こちらは裏側で物語のふわふわ感を拘束しているように感じました。こちらは、実際に死んでしまっているという設定を通じて、今度は生きることを拘束してみせる。この二つは、これまでの踊る大捜査線にはない感じです。時代の変化だと思います。

と書いていて思ったのですが、真犯人の野望は、すでにワクさんによって実行されているわけですね。私が死に、私が生まれる。犯人の目的が先取りされている。。。おー。

<映画と現実をリンクさせることさえできる>

さっき、時代の変化なんて安易に言ってみたのは、こうした流れがいろんなところでみられるように感じているからです。なんというか、ちょっと時代が昔に回帰しているというか、もちろんそれは今風にアレンジされたなのだと思いますが、そういう感覚があるからです。

まあそれはいいとして、最後に、特に今回の映画が究極的であったといえるのは、不在であるワクさん効果の絶大さでした。彼は、映画のストーリーを拘束し、全体を束ねあげているだけではなく、現実にも、すでに存在していないということを通じて、視聴者の側まで束ねあげようとしている。

映画を見ていて最も印象的ではっとさせられたのは、映画の中で、彼への言及がなされるたびに、その言及が、映画の中の話なのか、それとも現実の話なのかがよくわからなくなるという点でした。例えば、映画の中で出てきた彼の手帳に書かれた文字は、映画用に作られたもののようにも見えるし、彼が現実に書いていたもののようにも見える。

こうなってくると、不思議なもので全部が現実とシンクロしてくる感じが出てきます。例えば、青島さんの医療結果が間違っていることが早い段階で視聴者には知らされる。けれども、映画内の人々は知らず、それゆえにシリアスな展開も起きる。彼らは知らず、僕たちは知っている、映画やドラマではありがちなこの展開は、しかし、ワクさん効果を通じて僕たちを奇妙な感覚にさせる。

さらには、最後にマシタさんがおいっすという。(積極的に現実に侵入する)。そこで、「彼」の結婚生活が異様に下手な演技で語られる。もはやそれは、僕には映画のストーリーなのか、現実の話なのかわからない。エンドロールでは、実際に湾岸署ができたとコメントされる。完全に映画と現実の境界が曖昧にされていると思うし、それを狙っているように見える。

だからこそ、この映画は最終的に回顧的な、同窓会的なという評価を得ることにもなってしまう。けれどもそれは、この映画がまさに狙っていた点であり、戦略的に言えば、ワクさんという存在を最大限に利用することで映画と現実の境界を曖昧にして、僕たちに僕たちと踊る大捜査線という映画の関係を思い出させることにあったといえる。

映画が終わったとき感じるのは、彼も年を取り、けれども(だから?)僕も年を取ったというリアルな回顧感や徒労感、あるいは無常感?ということになるかなと思いました。寅さんとか釣りバカ日誌に近くなってきてるのかもしれないです。

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2011年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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