本質直観のための『創造的進化』考察

 ベルクソンは、『創造的進化』の中で、ジグゾーバズルを解くプロセスと、画家がキャンパスに絵を描くプロセスを比較しながら、時間の意味を考察する(邦訳429−430頁)。
ジグゾーパズルの場合、「その結果は与えられている」のだから、時間は必要とされない。「イメージは既に創造されていて、それを獲得するためには再構成と再配置の作業を行えばいいのである」。結果、理論的には、作業の時間はゼロになっても構わない。ベルクソンはこれを目的論として捉える。
一方の画家の場合、もちろん「抽象的な認識によって、どのように問題が解かれることになるのかを知っている」とはいえる。しかし、「具体的な解答はあわせて予見不可能な何かをもたらす」。そこでは、常にその解答が選択されない可能性が残されているからである。そしてむしろ、それこそが芸術作品となるだろう。
後者における時間は、それ自体が生成の過程を担っていることがわかる。ベルクソンが重視するのは、もちろん後者である。

経営学において、時間の重要性を説く研究は少なくない。というより、多くの今日的な研究は、先行研究を何かしらスタティックなものであると見なし、「ダイナミック」な観点として時間の重要性を強調するように思われる。
だがこのとき強調される時間は、往々にして、ジグゾーパズルを解くプロセスとして示されていないだろうか。ベルクソンに従えば、そこには時間はない。最初から答えが与えられてしまっているとすれば、たとえそれが隠されているとしても、後は発見(という究極的には無駄な作業)するだけだからである。

時間を重要視する研究の中には、それゆえに時間の中で生まれた偶発的な出来事に焦点を当てる場合もある。いわゆる意図せざる結果であったり、「創発」と呼ばれるような概念を用いる研究もおおむねそれに該当するだろう。なるほど、これらは確かに時間に接近しているようにみえるが、やはり注意が必要になる。
ベルクソンは、こうした行き当たりばったりの出来事の集合として進化が成立するという考え方もまた、機械論(おそらく一つ一つ歯車が展開していき、その先の未来が決まっていくような視点)であるとして斥ける。確かに先のジグゾーパズルとは異なり、機械論では時間の重要性は最後まで消えない。しかしその一方で、依然として時間それ自体の意義は見いだせない。機械論にあるのは、ばらばらに動くだけの世界である。

目的論にもよらず、かといって機械論にとどまらない議論こそが、時間それ自体を捉えることができる。我々の行動の中で生まれてくる現実を、想定されつつ想定を乗り越える出来事であるとして捉えること。ようするに、時間と我々を一体として捉え、我々に直接的な創造性を認めること。
それは場合によっては、あるときには機械論的に、そしてあるときには目的論的に語ることができる世界ということになるのかもしれない。しかし、それはおそらく空間的に存在しているというよりは、それ自体が時間的なものとして捉えられるものであるようにみえる。繰り返していえば、自分が時間であり、その時間は、支離滅裂なわけではなく、私としてある種の安定性と方向性を持っていると言うことのように感じる。これが直観だろうか。

創造的進化 (ちくま学芸文庫) 意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫) 時間と自由 (岩波文庫)


2013年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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