授業に出るべきか、バイトに行くべきか。

結果が見えやすいのはバイトだろう

ちなみに、今も正直なところはっきりとした答えはない(笑)。少し前までは、授業に出た方が良いのではと思っていたのだが、その前は、それは自分で決めれば良いことだと思っていた。今は、少し書きながら考えてみたいと思っている。

もちろん、「授業にお金を払っているのだから」とか、「学生の本分は」ということは容易い。けれども、そうではない論理を考えてみたい。少なくともこの言い方では(なんというか高圧的に過ぎて)、当の学生に納得してもらうことは難しいと思うからである。

それから、「授業の質による」という人もいるかもしれない。この指摘は極めて意味があるが、同時に、こういってしまうとうまく答えられないだろう。授業の質とはいったい何のことであるか、決めることができないからである。そんなことはない、授業の質とは、将来役に立つことだというかもしれない。それはそのとおりである。だが、将来役立つとはどういうことだろう。高校生のときに習った数式やら古文は、僕にとって今のところ役に立っているようにはみえないが、僕はあの日の授業をさぼって、家でゲームをしていても良かったのだろうか。僕には、少なくとも、わからない。

たぶん、多くの授業は、一回一回の結果としてその場で評価できるような何かではない。バイトの場合、一回一回の結果がお金と言う形で計算されて支払われる。その額がいかに小さくとも、結果が評価できない授業に比べれば、人々を駆り立てやすいであろうことは想像に難くない。

バイトが同時に魅力的と言えるのは、こうした一回一回の計算可能性に加えて、授業と同じように、長期的にもたらされる可能性を潜在させていることにある。すなわち、将来においてそれが役立つ可能性もまたあるわけだ。この将来に役立つかどうかが最初からわかればいいのだが、この点については、バイトも授業も未知だろう。最初からずっと未来を見据えて勉強したりバイトをすることももちろん可能だが、多くの場合、そこまでは見据えられずに決定するし、それが役立つかどうかは、多くの場合偶然に左右されながら未来において決定する。なんにせよ、授業とバイトを比べて、まずは短期的には結果が見えるバイトに人々が傾く理由がわかる。

短期効果            長期効果    総合評価
バイト  見えやすい(お金がもらえる)  見えにくい   選びやすい
勉強   見えにくい(単位ぐらい?)   見えにくい   選びにくい

コネクティング・ザ・ドッツ

スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学で講演したことはよく知られているが、その一節にコネクティング・ザ・ドッツ(かっこよくCTDと呼ぼう)の話がある。個人的にあまり覚えていなかったのだが、今回の議論を考える上でいい示唆を与えてくれる気がする。

CTDでは、今している何かについて、それが意味を持つかどうかは、未来において決まるということが強調される。言い換えれば、今や過去にあったことをについて、それが必要であったと積極的に意味付けることがCTDだろう。例えば、ジョブズの演説では以下のようなものが挙げられる。大学のときにカリグラフィの授業を受けていた時は、それが楽しいことであったことは間違いないが、将来何の役に立つのかわかっていなかった。後にマッキントッシュを作るようになった時、その意味がはっきりと分かった。また、会社を一度クビになったとき、それはとてもつらい時だったが、今思えば、それはその後の成長のために必要なことだったとみなされる。

もちろんCTDは、単に悪い出来事を良い意味に反転させるということではない。苦労をすればするほど、将来の成功に繋がるという考え方とは、基本的に別のものだと思った方がいい。苦労したかどうかではなく、幸せな人生も含めて、それらに今や未来に繋がる意味を与えることができるかどうかを問うているのである。したがって、CTDは、嫌なことを避けるという日常的な習慣を特に否定しない。

それからもう一つ、こうした今や過去の意味づけは、単に成功したから言えるという後づけではなく、言えるようにするということが成功へと繋がると見た方がいい。とすれば、われわれにとって重要なことは、そうした意味づけを可能にできるようなCTD能力を養うということになるだろう。

CTD能力を考えれば、当初のわれわれの問題は一歩前進する。授業に出るべきか、バイトに行くべきかという問題について、どちらが将来の役に立つのかは一義に決めることはできない。むしろ重要なのは、それぞれの価値を現時点で定めることではなく、それぞれの価値を後に見いだすことができるようなCTD能力を養うことについて、こうした授業やバイトが役に立っているかどうかを考えればいいのではないかというわけである。

短期効果は、逆にCTD能力形成を阻害すると思う

CTD能力は、仮説的ではあるが、ある種の反省や問い直しと強く関係しているようにみえる。逆にCTD能力から遠いものは、ルーチン化され、考えることなく繰り返される日々である。このように思われるのは、過去や現在の出来事が意味を持つようになるためには、それが何であったのかを考える契機が必要になるからだ。そうした考える契機を作り続けることが、CTD能力にとっては欠かせないはずだ。

とすれば、例えばバイトがコネクティング・ドット能力を養うかどうかは、こうした反省や問い直しをどの程度含むのかという点から考えれば良いことになる。例えば平凡だが、コンビニバイトでレジうちを初めて体験することは、おそらくCTD能力を養うであろう。それは非日常的な体験であり、新しいアイデアや、ある種の達成を伴うからである。けれども、それがルーチン化されてしまえば、もはや何の意味もない活動となる。その意味では、もしバイトが意味があるというのならば、できるだけさまざまなバイトに手を出した方がいいということになる。

バイトがCTD能力を養うという点で抱えやすい問題は、短期的には計算可能な金銭の支払の存在である。すなわち、とにかくお金を稼ぎたいという場合には、問い直しのような面倒な作業はできるだけ省略し、ルーチン化されていた方が効率がいい。結果、短期的に金銭を得られるという計算可能性は高まるが、CTD能力は形成されず、あまり望ましい活動だとは言えなくなる。ようするに、当初はバイトの選択に有利に働くように見えた短期的な結果の計算可能性は、ルーチンを求めやすく、最終的に必要なCTD能力の形成を損なうというデメリットを持つ。

では、一方の授業の方はどうだろうか。授業は、CTD能力を強く養うか。ただ聞いているだけの授業であれば、それはルーチン化された何かか、それ以上に意味のない時間だろう。単に単位が取れればいいという場合、これもまた短期的な計算可能性に関わりそうだが、ノートを丸暗記するというようなルーチンに没頭することになる。それはあまり意味がない。授業においても、CTD能力を養おうとすれば、そこに反省や問い直しが生じなければならない。あるいは、面白くない授業に面白さを見いだすような行為が求められるのであり、それはCTD能力そのものと言えるかもしれない。余談ながら、そう考えると、授業を楽しくさせることは、学生が考えるべきことであって、教員がしてはならないのかもしれない。楽しい授業を用意すれば用意するほど、知識の伝達にはいいかもしれないが、結局、CTD能力は養われない(ということはあるだろうか)。

補足。お金はなくなるが、知識はなくならない

あと一つ。バイトで短期的に得られるお金は、使ってしまえばだいたいなくなる。これに対して、勉強で得られる知識は、使ってもなくならない。この点も意識しておいた方が良いかもしれない。バイトでも知識は得られるが、ルーチン化されてしまうと当然知っていることの繰り返しになるため、知識は得られなくなる。バイトで知識を得るためには、絶えず新しいバイトに挑戦する必要が生じる。

例外的に、お金も、投資するのならば減らない。むしろ増えることがある。起業するといった場合にも、お金は増えるかもしれない。ただ、そこには投資というリスクが生じるため、減るかもしれない。知識は、何にせよ減らない。ただもちろん、時代遅れになっていくということは、知識の種類によってはあるかもしれない。


2015年08月14日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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