後づけや結果論の何が問題か2


写真AC。

改めて考えてみる

ずいぶん前に、おそらく2010年ぐらい、後づけの問題点についてちょっと考えたことがありました。私たちは、しばしば、「後づけ」とか「結果論」といった言葉をネガティブな意味で用いるわけですが、本当にそうなのだろうかというわけです。結論としては、特段ネガティブなことはない、ということでした。予測が問われている場合、生存バイアスを無視している場合、それからそもそも説明に無理がある場合ぐらいが、問題が少し生じるかもという感じです。

後づけや結果論の何が問題なのか

ということで個人的にはもう終わった話という感なのですが、とはいえ、今もよく聞かれるところでもありまして、そのあたりどういう話法がありうるのかということを改めて考えてみようかなと思った次第です。

何が問題か

具体的に今もよく聞かれるのは、「理論って後づけですよね?」ですとか、「その話って後づけですよね?」といったような質問です。これに対する返答は、「はい、そうですね。で?」という感じではあります。上の場合分けを考えると、この次にさらに可能な話は、「予測はできないですか?」「生存バイアスがかかっていませんか?」「その説明は無理があるでしょう?」のいずれかです。

「予測はできないですか?」については、「今後はできるかもしれません。」になりますでしょうか。「生存バイアスがかかっていませんか?」の場合は、何を見て、何を説明したのかによって変わりそうです。とはいえ少なくとも理論という場合には、一般性が少なからず議論されているでしょうから、「かかってないと思います。」でしょうか。そして最後の「無理」の場合には、ちゃんと答え直す必要がありそうです。

やっぱり特段の問題はなさそう

一般的に、科学は自然現象に対して意味や理由を与えようとしてきました。それは常に後づけであり、結果論です。とはいえ、こうした科学の営みについて、それって後づけだよねとか、結果論ですよね、という言い方はあまりしないように思います。わかっていなかった宇宙のメカニズムがわかったり、原子の運動が説明できるようになることは、重要な発見でしょう。

これに対して、社会現象に対して意味や理由を与えようとする場合、たぶん、後づけや結果論といった表現がネガティブに出てくるような気がします。ここにある差は、一つには、社会現象では誰か人間が何かを先行して行なっており、これに対して、さらに誰か人間が意味や理由を与えようとしているということかと思います。人間の行為に人間が意味や理由を与えるといことについて、何かしらのループ感や、後からいうことのマウント感を感じてしまう。そうはいっても、結局は先に行為した人間の方が偉いでしょう=実行重視という話にも繋がりやすい。このあたりの感覚をうまく考えておく必要があるのかな、と改めて思いました。


2018年10月21日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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