歳をとるということ

このところ体調が悪いというかなんというか、ダウンタウンのおじいちゃん化が激しいみたいなことを自分でも感じる今日この頃です。
膝が痛かったり、肘がまっすぐ伸びなかったり、歯の詰め物が取れたり、あとおしっこの出も悪くなるみたいな、自然現象とはいえ、書いていてやれやれと思います(笑

一方で、周りの方々と話していて、つくづく若い方もいるものです。
先日も飲み会で話していて、「あ、おれ60になった」とか言われて、「え?見えませんね。。。」とちょっと絶句するなど。
10年前、20年前ぐらいも知っているだけに、その頃の時間で止まってしまっている印象もあるかもしれません。
100年時代よろしく、昔の頃の60歳と、今の60歳を同じように比較することはできません。昔だと、少なくとも僕のイメージでは、60歳というとお茶すすりながら日がな縁側でぼんやりしている感じです。
それが今では、海外旅行は行くしマラソンもする。仕事ももちろん、そろそろ独立して一旗あげてみようかという人もいます。

歳をとっても若くいられるという時代にあって、しかし現実として痛感するのは、それでも歳はとっていくという感覚であり、それは単に歳をとるという感覚にとどまらず、「若くいられるはずなのに」老いていくというズレとして、強い感覚を引き起こすように見えます。
かつては自然現象で万人にほぼ平等に訪れるあったはずの老いるという当たり前の出来事が、実のところ今ではそうではなく、自分だけに訪れている特殊な何かなのではないかと感じられるわけです。

若さを保とうとして努力するのではなく、むしろそれを当たり前として、逆に老いることを例えば一種の病気として見做すこと。

確かに若いうちは、病気はまさに病気であり、例外的な出来事でした。その若いうちがどんどんと広がり、今では60代も若いうちに入ろうとしている。
にも関わらず、どうも思うのは、老いるということはそれとして、実は若いということの対にはならずに、今まで通り着実に進行しているように感じます。
それがまた人によっては綺麗に対になっているかもしれないということが、なんだか不安の原因にもなってしまう。

麒麟も老いれば駑馬これに先立つ

どうなんでしょうね。


2019年08月25日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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