やってくる、オートモードと飲み過ぎ

郡司先生の「やってくる」の話を少し書きましたので(COVID-19に関する個人的な雑感・デジャヴ)、ついでに「ビールの可能性の列挙が終わらない!」であるあるだと思ったことなどもメモしておきます。

この「ビールの可能性の列挙が終わらない!」話は、僕自身の経験として、そこまで深刻なところではないですが、いろいろと思い出すことがありました。最初に思い浮かんだのは、ドランゴンクエストの「コマンド?」でした。何かを選択すれば次に進みますが、Bボタンでキャンセルすると、いつまでも「コマンド?」が続きます。当時はもとより、今でも、「コマンド?」が頭の中でループする時があります。どうしよう?というだけの話なので、特段それ以上のこともないわけですがとりあえずまず一つ。

次に思い出したのは、この手の思考(脳?)が自分の意思とは関係なく動いていくというのは、子供の頃に熱が出るとよくあったような気がするということでした。熱にうなされる、ということかもしれませんが、夢で見ている話が、目が覚めてからも続くわけです。覚えているところでいくと、インディージョーンズの冒険よろしく、切り立った崖の一本道を歩いていると、崖が崩れて落ちそうになる。そこからさらにドラキーのような魔物が空から襲ってくる。あー自分は勇者なのか?、ゲームのしすぎだなと思いながら目が覚める。

しかし目が覚めているにも関わらず夢は依然として続き、落ちそうな自分を助けねばならないと思ってしまう。一方で、目は覚めているわけなので、これは夢で、気にする必要がないということもわかっている。自分は勇者ではないし、ドラキーなど存在していない。なんだこれは、さっさと夢は止まれと思うものの、夢は夢で自動的に進み、自分の意思ではどうしようもない。あるいは、毒の沼地に落ちたところで目が覚める。やっぱりゲームのしすぎだと思う。けれども依然として毒の沼地に落ちているので、身動きは取れない。なんだこれは、さっさと夢は終われ、体が動かないはずがないと思うものの、やっぱり体は動かない。こんな時に敵がきたらどうしたらいいのだと思ってもしまう。どちらも、そうこうしているうちに、結局は寝てしまう。朝になって起きれば、なんということはない。

オートモード。というような言い方を当時していたかどうかわかりませんが、そういう感覚がありました。幻聴とか幻覚に近いのかもしれません。オートで動いていたり考えている自分を、別途自分が見ていたり、考えているような状況。考えてみると、こういう感覚は、子供にはよくあることで、成長するにつれなくなっていくのかもしれません。論文作成とか、今でもオートモードでやってもらえると楽なのですが(笑

あと、最後に思い出したのは、やっぱりビールとかアルコールを飲み過ぎると、今でもそういうことになりますかね、ということでした。頭がぐるぐる回ってしまうような状況。自分と、アルコールのせいでうまく動かなくなっている体が分離しているように感じる。酔いに任せると気持ちいいようにも思うのですが、同時に任せてしまうとダメのような気がする。これだと、意外に飲みながら論文を書いたりもできてしまうので、いいのかもしれない(成果が上がっているかどうかはもちろんわかりません)。

ついでにもう少し全体の構成について。書籍を貫通している4項の対応図式は、天然知能から続いているかと思いますが、まずは3つで考えがちなところで、4つ目を考えることはもちろん、どこに置くのかは独創的かもと感じました。基本的に、問いに対して答えが対応していることは常識的です。同時に、この問いと答えが、文脈に支えられていることもわかりやすい範囲です。文脈がなくなってしまうと、問いと答えの関係が解体してしまい、底無しの感じになってしまう。ということで、多くの研究パターンは、この3項関係に焦点が当てられるのかなと思います。文脈もない状態、あるいは、3項関係が緩い状態においても、底無しの状態にはならないということを考えたり、あるいは、そういう状態こそをチャンスとして捉え直す。問題はそのチャンスなり究極的なものをどこに置くかで、文脈そのものにおいてしまえば、3項関係でこと足り、第三者のようなもので代替できる。一方で、個人的によく見た系だと、問いに対してさらなる根源的問いのようなものを想定すれば、今度は問いの問いとしても4つ目を想定できる。問いの問いは、手前の問いと答えの関係はもちろん、それを可能にする文脈も支えているわけですが、絶対に前には出てこない。これが出てくる際には、やっぱり「やってくる!」的にならざるを得ない。ムールロー的な声は(絶対引っ越す)、典型的な問いの問いという感じもした次第でした。


2020年10月10日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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