因果関係の特定に対抗するということ

ピーター・ドラッカー wikipedia

先日、西川先生と佐藤先生と打ち合わせしていたときに、以下の記事を教えてもらいました。ドラッカーが現在アメリカでは知られない人になっている理由について、ドラッカーの議論には因果関係を示す記述がみられず、ちなみにバーナードも同様であり、今日的な研究の潮流にあっていないということでした。それはわかりますねー、という話になりました。

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ドラッカーはなぜ、「世界標準の経営学」から忘れられたのか?
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でまあどちらが良いのかなということになったところで、僕はドラッカー系ということになりました(笑 そうだと思います。因果関係ない派ですねと言ったわけですが、もう少し正確にいうと、因果関係がないと思っているわけではないです。むしろ逆に、この世の中は因果関係だらけです。すなわち、因果関係ない派ではなく、因果関係の特定が日々求められ、日々構築されていることに興味がある派です。

大事な点として、これは社会についての話であり、全てのことを言っているわけではありません(とりあえず)。この社会では、因果関係は、その多くが、構築されていくものだと思っています。例えば、知識創造がビジネスにとって重要であり、売り上げを向上させるという時、それは因果関係を示しているのではなく、そういう事実が構築されていると考えます。多くの人が知識創造に力を入れることで、売り上げを向上させている。あるいは、そういう事実が(断片的な事実も含め因果関係として示されることで)、その事実を強化する。

個人的に実証研究が得意ではないのは、センスや能力もさることながら、分析の結果と、特にインプリケーションを組み合わせることに迷いがあるからです。特定のタイプの人は、特定のものを買いやすい(例えば、エコ志向の高い人は、エコな商品を買いやすい)として、だから、エコな商品はエコ志向の人に売りましょう、ですとか、エコ志向を高めることを考えましょうという時、これは事実を示した研究なのか、それともそういう事実を作ろうとしているのかがよくわからなくなるわけです。

ちなみに、(社会科学系の?)研究者がこのところ社会的に評価を下げているように見えるのは(あれこれの政治話などで)、こうした因果関係への理解について、社会とのズレがあるからかもしれません。社会では、因果関係が構築的であるのはかなり自明であり、事実は作っていくものだよ、であったり、お金があればだいたいなんでもできる的な発想の方が自然であるように思います。「ファクト」が大事と言いながら、同時に、そのファクトを梃子にしてファクトをより大きなものに増幅させようとします。これに対して、研究者は、因果関係を自然現象のように取り扱い、それを特定し、発見した「とだけ」言おうとします。先の記事が示すように、研究の潮流は因果関係の発見です。そしてもう少し以前は、この態度が研究者には認められていたかもしれません。しかし今や、そうではないだろうというわけです。研究者が(まさにその立場を利用して)そう言うことによって、その因果関係を作っている可能性に、もっと自覚的になれというわけです。誰もが構築的な作業に従事しているのに、どうして研究者だけが、そうではない地位にいられるのか、あるいはいられると思っていられるのかーー。

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「緊プロ」の社会的構成に接続された知識生産 : 社会構成主義再訪
物象化された 「知識」が可能にするマ ネジメン ト: 製薬会社による 「知識移転プロ ジェ クト」の事例から
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もちろん、これは因果関係を捏造しているという意味ではないです。実際の分析によって発見された因果関係は、一つの結果として事実です。ただ、それ自体が既に構築されたものであった可能性と、その発見自体が、因果関係を強化する可能性があるということです。

そういえば、ドラッカーやバーナードにパフォーマティブな議論が折り込まれているのかどうかは知りません。そういう研究がもしかしたらあるのかもと思ったりもしました。

あと因果関係の批判的な視点としては、因果の循環性や因果の複線性、あるいは意図せざる結果的なものもありますが、この辺りはまた別の時に。。。どこかで書いた気もします。


2020年10月17日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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