講義(教育)と研究

大学もだんだんと世知辛くなり、昔は良かったねとよく言われる今日この頃です。個人的にはどっちもどっちな気がしますが、昔はできていたことができなくなったり、あるいは逆もあったりする変化があるのは確かです。どこでも同じように、変化が早まっているということはいえそうです。そんな中で、大学の業務の見直しもさまざまに進んでおり、教育することと、研究することの関係がクローズアップされるようにもなってきました。

このところ読んでいる本で印象深いものに、フーコーの講義録があります。1970年代後半の授業をまとめたものです。毎回の授業ごとに本になっており、2000年代に入って公刊されるようになり、今ではシリーズ化されています。日本語訳のシリーズは絶版でべらぼうな価格になっており手に取りにくいのですが、英語版は普通です。しかも、なんだか難しいフーコーの通常本に比べると平易で読みやすく、英語でも翻訳技術を駆使すれば十分読めます。

さて。この本を読んでいて思うのは、まさに1970年代後半の大学の授業と研究の関係です。フーコーの授業ということで、基本的なコンセプトは通底するところがあると思いますが、取り上げる個別テーマや、あるいは内容は毎年違っています。概念も毎年少しずつ意味や言葉を変えており、その辺りは貫通した研究をしようとする場合には解釈のしにくさとなりますが、毎年授業をしながらいろいろ考えていたのだろうなと思わされます。授業と研究が一体化しており、授業ではまさに彼が今研究して、今考えていることが都度都度報告されているように感じます。もしかすると、喋りながら論文や本の内容を確認したり、修正していたのかもしれません。

翻って今。多くの授業はシラバスが徹底され、画一化された枠組みを持つようになっています。まさに授業として、基礎では何を教えるか、応用では何を教えるか、体系化された知識の教授が行われます。誰がやってもマーケティングの授業は同じであり、日本でも、世界でも、教科書や構成は同じということもありえます。味付けや面白さは違うとはいえ、その先生が今何を考えていて、今何を研究しているのかを聞ける機会はほとんどない気がします(そもそも、その先生の本当の専門が何かを多くの学生は知らないままに卒業していくはず)。

もちろん、授業にもいろいろあり、応用の応用とか、大学院とか、あるいはゼミになれば、今でもフーコーの講義録のような内容が行われているのかもしれませんし、分野にもよると思いますがきっとそうだと思います。とはいえこうした機会がもう少しあってもいいような気もした次第でした。逆に言えば、研究していないと、授業もできないということになりますので、やっぱり分業した方がいいのかもしれませんが。。


2021年09月24日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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