やった方がいいよということと、命令に従ってということと
最近(昔からかも)子供が言うことを聞きません(笑 「勉強しなさい」はともかくとして、「片付けなさい 」「ゲームやら漫画止めなさい」「薬飲みなさい」「歯磨きなさい」「もう寝なさい」などなど、馬耳東風、馬の耳に念仏と化しつつあります(馬も大変だな)。当然、最初は普通に言っていますが、だんだんとボリューも大きくなってきて、どりゃー!!!となったところで渋々動き始めるわけですね。世の常ですか。
そんなところで最近思うわけです。それはあなたのためですよなのか、それとも私のためなのかと。
最初は多分、あなたのために言っています。勉強した方がいいのはあなたにとってであり、片付けた方がいいのもあなたにとってです。そういう習慣をつけておくことが、きっと、将来役に立つよというわけです。
一方で、これらの助言がスルーされた時、私は無視された感覚を持ちます。どりゃー話を聞け(俺の歌を聞け的な)となるわけで、この際には、あなたのための助言というよりは、まずは無視するな!の感覚の方が強くなります。
子供が言うことを聞きたくなくなるのは、往々にして、前者ではなく後者のせいかなと思うわけです。助言はわかります。しかし、無視しないこと、さらに進んで、あなたが言ったことに従うことは、大人になればなるほどちょっと気に障るところがでてきそうです。うるさいな、わかってるわ、ちょっと待てという感じでしょうか。
論文指導などでも同じ感覚を持つ時があります。参考文献とか引用の書き方をあれこれ言うわけですが、全然直ってこない。この時、直すことがあなたにとってメリットあることなのですよ、という感覚と、指示に従え、という感覚が交錯しています。
後者だけになってしまうと問題ですね。指示に従えという意味だけが強まってしまうと、一体全体何のためということになってしまいます。もちろん、言っている方としては、ここから他の指示にも従わなくなってしまうと統制が取れなくなってしまうからということもありそうですが、基本的な必要なこと、あなたにとって意味あると思われることを指示する必要はあります。
でもまあ、勉強しなさい、それはあなたのためなのよをわかりやすく説明して理解してもらうのは難しいことです。とにかく勉強しろ的な態度にはなりがちですね。。。たぶん、相手の主張を受け入れるには、多くの場合時間が必要だということです。