ブランドやマーケティングは、顧客の頭の中を操作するわけではないよと考えるために

ブランド構築やマーケティング戦略が人の欲望を喚起し作り出すと言われた1950年代から、すでに半世紀上経ちました。そんなわけないでしょうというその後の議論、さらには、むしろ人々の方がブランドや企業を自由に取り扱うよと言われたその次の次の議論を経て、まあ人々もそこまで万能ではないよね、共犯だよね、まあ共創だよねに至ったのがこの10年か、20年ぐらいです。論争みたいなものも昔あったとかなかったとか。

この議論の進展は、やはりインターネットの発展が大きかったように思います。インターネットや、あるいはソーシャルメディアがみせた新しい空間は、人々の創造性がいかに大きいのかを示すことになりました。フェイクニュースやステマの問題を考えれば、こうしたネットの空間もまた欲望を喚起し作り出す新しいフィールドにもなりますが、時代の流れとしては、共創の方を推しているようにみえます。

そんなところで、少し説明の様式を変えていかないといけないかと思った次第でした。例えばブランド構築のストーリーでは、企業側が作りたいブランド・アイデンティティを重視する議論から、顧客側のブランド・エクイティを重視する議論への展開があったわけですが、この流れにおいて、ブランドの価値は顧客の頭の中に記憶としてある、といった説明をしておりました。こうなると、ブランド構築とは、いかにして顧客の頭の中の記憶に入り込むのか、操作するのかといったことが主題となり、顧客側が圧倒的に抵抗力を持つとはいえ、ちょっと変な感じもするなと思っていました。とはいえこれ以上に上手い説明がなかった次第です。

しかしながら、ネットの空間のようなものをイメージすれば、ブランド構築とは、顧客の頭の中を直接的に操作しようとする試みではなく、ネットの空間(実際には、目に見えないはずの社会ですが)に散らばるブランド・ストーリーのようなものを、つなぎ合わせたり、切り離す(共同の)作業であると考えることができるようになります。この手の議論は、もちろん、かつてにおいても顧客の頭の中のブランド連想をつなぎ合わせたり、切り離す作業として議論されてきました。それを今度は、ネットの空間の出来事として捉え直していった方が、今風だし、より健全なのではないかというわけです。

現在のトレンドとしては、まだまだ、顧客の頭の中の操作という視点が多いことも確かです。研究なんかでもそうですが、例えば、こういう情報を提示すると顧客の記憶に残りやすく、また口コミされやすくなるよみたいなものですとか、自己利益よりも他者利益を提示すると、人々のWTPは高まるよみたいな話は、それはそれとしながらも、随分と危うい気もします。頭の中を操作しようとしていたり、もっとベタに、刺激ー反応だったりです。ここからさらに実務的インプリケーションをというと、操作系に一直線なわけで、むしろ、だからみんな気をつけようね、と言ってもらった方が個人的な納得感があります(研究の自己否定につながりますが。。)

その話で言うと、アンチトラストの議論が競争戦略になったように、ブランドやマーケティングの議論も同じかもしれません。気をつけようねという話と、逆にそれをうまく使えば騙せるのかもねという話は、裏腹ではあります。とはいえそういうするとさらに、競争戦略の方は依然として有効で、ブランドやマーケティングの方は板挟みになる理由が気になりますが、人事系の議論なども板挟みでしょうか。内発的動機付けの方がみんな頑張るよといった話があったとして、企業がそのように動いた時に、私たち(従業員)はそれにどう対応し、対抗できるのかの方が、大事ではあります。

話を戻して、もうすぐ刊行されるであろう石井先生の一連の議論なども、こういう話の延長のように感じます。ブランドを一個の独立したシステムとして考えるという視点は、ようするに企業とも顧客とも異なるものとして、ブランドの独自の空間を設定するものです。その内部空間には誰も入れないことにもなりますが(私たちの頭の中には誰も入れないし、入らない方がいいのと同様に)、みんなでそれについて語ることはできますし、その語り方を議論することもできます(その語りについて、当のブランドがどう思っているのかを知ることはできないし、それは人間ではない以上いよいよ当たり前のことであり、これが内部空間には誰も入れないということの含意)。


2022年04月25日 | Posted in エッセイ | タグ: Comments Closed 

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