「応援消費」の補助線
「応援消費」(水越康介、岩波新書、2022)につきまして、合わせて読むと面白い書籍として、「現代社会の理論 情報化・消費化社会の現在と未来」(見田宗介、岩波新書、1996)があります。25年前の見立てと、25年後の結果として読むことができます。(ちなみに、「現代社会はどこに向かうか 高原の見晴らしを切り開くこと」(見田宗介、岩波新書、2018)もありますので、それで事足りていると言われればそうかもしれません。)
「現代社会の理論」では、副題の通り、情報化と消費化という2つのトレンドが重視され、この社会を作り上げていくものと考えます。消費化はいうまでもなく消費社会の進展を示し、一方の情報化は、今風のインターネットの世界も含め、ものの価値が物理的なものから情報的なものへと移っていくことを意味します。
情報化の例として象徴的なのは、スーザン・ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか』にあるココア・パフの事例の読み替えです。
「私は週末に大スーパーに買い物に出かけて、ゼネラル・ミルズ社が、トウモロコシを一ブッシュ当たり75ドル4セントで売っているのを知りました(商品名は「ココア・パフ」、原料はトウモロコシ粉、砂糖、コーンシロップ、ココア、塩など)。先月のトウモロコシの一ブッシェル当たり生産者価格は平均2ドル95セントでしたから、消費者の手に届くまでに生産者価格の25倍になったわけです。・・・トウモロコシ1ブッシェルを消費者に75ドル4セントで買わせるということについては、あきれた社会的な無駄であると申し上げたい。」
スーザン・ジョージによるこのエピソードは、書籍タイトルの通り、もともとは貧困が起きる原因を考察しています。これに対して、見田は一方で同意しつつも、情報化という側面を汲み取ることで別の解釈を提示します。すなわち、ココア・パフは社会的な無駄とは裏腹に、実際には25分の1のトウモロコシを使うだけで済んでいるのではないかというわけです。
「応援消費」では、この情報化をマーケティングとして捉えています。マーケティングは一方で社会的な無駄であり、一方で創造的な側面があるのではないかというわけです。25年経った今でも、その意義は両義的であろうと思います。
『マーケティングの神話』(石井淳蔵、岩波現代文庫、2004)にも似た話が出てきます。
「ビールのパッケージを巡って狸だペンギンだといったビール・メーカー間の競争が起こったとき、あまりにも浪費的だとして批判した経済学者がいた」
このような人は、このパッケージを酒の肴にしながら対話を弾ませることには価値を見出さないのであろうし、消費には良い消費と悪い消費(浪費)があると考えているのだろうというわけです。
重要な点は、情報化=マーケティングは、価値を創り出すとともに、物質の消費量を抑えるという意味において社会的であるともいえたということです。そしてこの点は25年経ってより進んだかとも思うのですが、マーケティングはより直接的に社会的なものと手を結ぶようになりました。私たちは、消費することで社会に貢献することができてしまいます(それが本当に可能かどうかはさておき)。
あるいは、この傾向は25年前にはすでに強まっており、「現代社会の理論」が情報化・消費化の中で南北問題を取り扱ったことに象徴的であったということもできます。この頃の世界的な意識の変化については「応援消費」で議論したところではあります。
この辺り色々足すのも冗長かと思って書籍内では外したわけですが、何かのご参考になればという次第です。応援消費やマーケティングで岩波新書というと違和感があるかもしれないところで、とはいえこのあたりまでわかっていれば、ある種の定番パターンを見いだしてもらえると思っています。
後蛇足ですが、情報化=アバターとして展開したものが『仮想経験のデザイン インターネット・マーケティングの新地平』でした。ネット空間にマーケティングが興味を持つのは、この無の空間において無限の価値を作れるか(つまりは交換の実現)が問われているからです。