「応援消費」にみる消費の意味

引き続き「応援消費 ー社会を動かす力」に関するサブトピックを取り上げています。今回は、消費の意味につきましてです。

本書籍の刊行のタイミングで、とても良いタイトルの書籍が翻訳化されていました。「消費は何を変えるのか 環境主義と政治主義を越えて」であります。元タイトルは「消費とその結果」といったもののようで、少し意訳となっていますが、意訳されたものの含意は応援消費の話ととてもフィットします。内容的には消費社会論の変遷を紹介しており、ウェブレンあたりから初めて、メアリー・ダグラス、サーリンズ、ブルデュー、それからボードリヤールといった感じでしょうか(そういえばマクラッケンが抜けているんですかね?)。応援消費では、この手の消費社会論の展開については議論しませんでしたので、別途ご覧いただくと面白いと思います。その点では、間々田先生のテキストをご覧いただくのが良いかもしれません。「新・消費社会論」の方は参考文献にも入れました。

さて、改めて、「消費は何を変えるのか 環境主義と政治主義を越えて」というタイトルからは、疑問形ではありますが、消費は環境や政治を変えうる、あるいはそれ以上に何かを変える、というニュアンスを読み取ることができます。このことは、応援消費でも中心的なテーマとして取り上げたつもりであります。消費を通じて、例えばエコ消費や倫理的消費という形で、私たちは環境を変えたり(良くしたり?)、さらには政治的消費という形で、社会も変えることができるというわけです。後者については、事前の打ち合わせではキャンセルカルチャーなども含められるのかという議論がありました。おそらく答えはイエスですが、個人的にキャンセルカルチャーはちょっと極端にすぎる感じもありましたので、ひとまず書籍では外した経緯があります。

応援消費で紹介したのは、こうした消費を通じて環境や社会を変えることができるという考え方は、消費の意味としては新しいものであり、近年になって生まれてきたものだということでした。そして、それは消費を否定し対立するものとして生じているというよりは、消費の中において、元来外部にあったものが取り込まれて生じたものであろうというのが、もう一つの見立てでありました。

そう考えたときに、消費の意味、あるいは私たちはなぜ消費するのかという基本的な問いは、随分と変化するものだということに気づくことができます。30年前、「マーケティングの神話」で議論されていたのは、消費には、本質的な消費と無駄な消費があるのかということであり、さらには人は人の肉を食べられるのかということでした。つまりは、消費可能なものは文化に規定されるということだったわけですが、その文化は、消費の定義を大きく変えつつあるわけです。あるいは、その文化が変わったということになるのかもしれません。

生きるために、よりよく生きるために、私のために、私たちのためにという消費は、今や人のために、社会のために、社会を変えるために行うことができます。消費の「素晴らしさ」はますます磨きをかけられており、これをもって、新しい消費社会と呼ぶこともできる気がします。応援消費に限らず、推し活もこのあたりは同じだと思います。


2022年08月15日 | Posted in エッセイ | タグ: Comments Closed 

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