AI将棋にみる「探索」と「評価」

「ダイヤモンド社」https://diamond.jp/articles/-/241828

マーケティング学会のリサーチプロジェクト「AI研究会」では、長らくAI将棋に注目することで、AIとビジネスの未来を先取りしようとしてきました。その詳細はすでに依田先生達とまとめてきたとおりですが、改めて、AI将棋の強さの理解の仕方として、「探索」と「評価」に注目し、その意味することを考えてみたいと思います。

AI将棋の強さを探索と評価という二つの側面から捉える見方は、ポナンザの開発者である山本さんの書籍「人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?」で説明されています。

探索とは手筋を考えていくことであり、いうまでもなくコンピュータは膨大な手筋を一瞬で考えることができることにより、二手先、三手先どころではない先の先まで読むことができます。とはいえ、当然詰みの状態までを想定することは現状でも無理であり、特に序盤や中盤では、探索には限界が生じています。人間の棋士が初期に見出したAI将棋に対する勝機は、こうした序盤と中盤を攻めるものでありました。

これに対し、もう一つの評価とは、大局観を示すものだと考えられています。例えば先の探索に対し、勝利から遠のきそうな手筋を早めに見切り、勝利につながる手筋に絞り込みをかけていく感覚や、あるいはそもそも現状においてどちらが優勢であるのかということについての理解だといえます。この感覚は、まさに人間固有の強みだと考えられてきたわけですが、この感覚をAIが身につけ始めたとき、AI将棋がプロ棋士を上回るようになりました。

探索はもともとコンピュータの得意とするところでありましたが、同時に、具体的な計算方法は人がプログラミングしたものでありました。同様に、評価についても、元々は人が作った計算式をもとにして(例えば、王、金、銀の距離を最適化するような式として)、係数のチューニングを繰り返していったものです。

既にこのチューニング作業において、どうしてそのパラメータを変更するとAI将棋が強くなるのかはわからなくなっていたようです。そしてその先として、チューニング作業も(そしてディープラーニング系であればそもそも最初の式自体も)コンピュータに任せられるようになると、AIはいよいよ「魔術化」し、そして「自然化」していくことになります。なぜそのような手を打つのか、なぜこの局面において勝っているとコンピュータは判断したのか、これらを人間は解釈する側にまわります。

コンピュータは、コンピュータ同士で何億と対戦を繰り返し、勝てるチューニングを行っていきます。その対戦回数は当然人間には実現不可能であり、コンピュータが独自の論理を自らのうちで高めていく(過学習の問題もあるとはいえ)ことは容易に想像できます。一度その程度が人間を上回ったとわかれば、その解釈や理解へと人が向かうこともまた自然といえます。

さて、これらの話から、AIとビジネスの未来をどのように考えることができるでしょうか。大きく3つの点を確認しておこうと思います。

一つは、ビジネスにおいても、局地的にうまく利用できるようになったAIについては、その解釈や理解を行うようになるだろうということです。これらはすでにGoogleやAmazonにおいて生じ始めていることでもありました(「AIを活用したユーザーニーズの探索プロセスにおける「結果」と「理由」に係る一考察」)。そしてその先にあるものは、再び人間の世界であり、どれだけAIを深く理解しているか、あるいは、どれだけ他者がAIを深く理解しているかを織り込むのかという世界でした。

二つ目は、AIが人を上回るためには、その膨大な競争による学習を前提としたということです。このとき、私たちはもともとどのように学習を効率してきたのかということを思い出す必要があります。現場で場数を踏めば踏むほど、人は成長します。しかし、その場数はAIには決定的に及びません。むしろここで望まれるのは、場数をブーストするような方法であり、将棋であれば定石を知り、打ち手の意味を一人で、そして研究会において考えることが望まれます。この学びは、AIには及ばずとも、一つ目のAIを理解するということにもつながります。

そして第三として、私たちに求められているものも、「探索」と「評価」であるということができます。様々な打ち手の可能性を読み上げていく「探索」と、そもそもの現状を把握し、勝っているのか負けているのかを把握する「評価」の二つを鍛えることが、人間にも求められているといえます。特に後者の評価は、AIの学びはやはり人間のようでもあり、パラメータのチューニングを行いながら、私たちもまた自らの中に独自の数式を作り上げ、大局観を養っていきます。それは自分でもあっても十全には理解できず(例えば、なぜ今こうすべきだと思うのか、こうすべきではないと思うのかは定かではなく、ただ確信だけがあり、その確信も間違っている可能性すらある)、ようするに黒魔術化されており、自然現象でもあります。評価の力を鍛えつつ、その自らの評価の理解を深めることが、改めて大事になるように思います。というところで、以前書いた本質直観の話にも戻るわけであります。


2022年09月20日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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