動画を見ることと作ること

うちの子が動画ばかり見ていて勉強しません。

とは、おそらく多くのご家庭で言われていそうなことです。一昔前ならば、うちの子はゲームばかりしていて・・・という感じで、もっと前は、たとえばテレビばかり見ていて・・・とか、野球ばかりしていて・・・みたいな感じだったと予想されますが、まあそんなものです。

最低限宿題ぐらいはやってほしいと思うわけですが、だからといって、動画を見ていて一人で薄ら笑いを浮かべているうちの子などを見ていると、大丈夫かね、、、と思ったりもするのは確かです。時間制限つけてみたりいろいろやってみたりもしますが、まあ正直意味があるのかどうかはわかりません。

思い起こせば、自分自身も、子供の頃はまさにゲームばかりしていたわけで、それで何か問題だったかと言われれば、特段何の問題もなかった気がします。要するにこの手の話は昔から共通していて、かつ、ほとんど意味のない話なのだろうといことです。ただ単に、大丈夫かね、、、という親の気持ちがあるだけですね。

とはいえ一方で、ゲームばかりしている子供の中から、一定数は勉強ができたり、あるいはその後うまく成長していく子がいるのも確かです。それは能力なのだと言ってしまえばそのとおりであり、勉強そのものの能力とはまた別のような気がします。

改めて思い出してみて、自分が子供だった頃、毎日のようにゲームをしていたわけですが、ただゲームをするだけではなく、ゲームを作りたいと思うようになった記憶はあります。一度作りたいと思えば、ゲームプランだけではなく、プログラミング言語も覚えてみようかと思ったり、コードも読めるようになった方がいいかもと思ったり(これはまた別の理由がありましたが)、と展開していきます。興味があるので、結局結実しなかったとしても、その時はあれこれやってみるものです。ギターとかも同じ感じでしょう。かっこいいなと思って練習してみる。多くの場合全然うまくはならないですが、まあ、コードぐらいは弾けるようになる。

別に受動的ではいけない、といっているわけではありません。今でも、ゲームにとても詳しい方がいます。当時徹底してゲームを遊んだことで得られた知識を維持し、活かしています。もう少し前であれば、映画もそうでしたでしょうし、もっと遡れば、古典や詩のようなものがそれに該当したかもしれません。今、五経を誦じているような子供がいれば、もっと他のことを勉強しろよと言いたくなるかもしれませんが、それこそ、世が世ならば麒麟児でしょう。結局のところ何でも良い。動画でもゲームでも、見方を変えられること。あるいは、そこから派生していろいろやってみたり、考えてみたりできることを評価すること。

ボーとだけ見ていなければいい。そのぐらいは言ってもいいでしょうか。そう考えると、うちの子もなんか写真の撮り方を工夫してみたり、料理を作ってみようとしたりもしているようです。一瞬youtuberも目指したようですが、そちらは実行する間に頓挫した感はあります。ただまあ、これだけでもやっていれば十分で、後はこちらの忍耐、というか、まあこちらはこちらでブログの記事にしてみたり、エクスパートインタビューさせてもらえればいよいよ何の問題もないはずだということになります。こちらの見方を変えられることも、親としては重要そうです。


2023年03月22日 | Posted in エッセイ | タグ: Comments Closed 

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