構造としての競争とプロセスとしての競争
備忘録。
この2つの章は、基本的に対話としての競争に対応している。前者がベーシックな経済学あるいはポーター流の競争論で、後者がハイエクベースの競争論である。
ポーターの競争戦略論は、アンチトラストに関する知見を反転させることで成立している。完全競争下で利益を得ることができない企業は、完全競争を排除することで利益を得る。この排除要因が、例えば参入障壁であり、業界ごとに収益性が異なる根拠となる。この参入障壁の規模を小さくすれば、戦略グループや個別企業のコアコンピタンスとなる。
しばしばポーターの競争戦略論がスタティックで一時点的であるといわれるのは、この競争観にある。完全競争が想定する競争は、誰もが利益を得ることができない世界であり、均衡に達している。変化はない。同様に、特定の業界において利益が得られる形も、特定要因を考慮した均衡状態である。
この点において、スタティックなものを繰り返せば動的で、時間軸を取れるようになる、とはいえない。スタティックになるように作られたモデルなのだから、それを繰り返すという作業は、モデルの意味を無視している。もっといえば、その作業は、外部からの強引な介入であり、これを現実には実践やマネジメントと呼ぶことができる。ファイブフォースが今でも重要な戦略ツールの一つなのは、これを使って外から強引に介入することができる、つまりは私が戦略を立案し実行できるからである。(ここで強引にというのは、実際の選択が順応的か破壊的かということではなく、どちらにせよ、モデルの意味を無視することで可能になるということである)。スタティックであるというのは、ネガティブでもなんでもなく、意思決定するための有力な条件である。
一方で、動的なモデルと呼びうるハイエク流の競争観は、競争を新しい知識を生み出す装置とみなす。この競争では、均衡が動き変わることがモデルに組み込まれる。競争は均衡を生み出すのではない。逆に現実にはポーターのモデルのようなものを元に(あるいは使わずとも)、さまざまな介入が行われることによって、変化が生まれるわけである。このモデルは、ポーター流の競争戦略論を用いて(あるいはその意味を無視して)動く実際の人々を捉えるメタレベルの枠組みとなっている。
こうして考えるとハイエク流のモデルがより包括的で有用に見えるが、問題点として、このモデルはモデルというよりは現実の記述としての側面が強まる。人が何かをなすということについては、結局のところ見取り図と行為が別れざるを得ないからである。この点を同時に捉えようとする試みもあるが、それはそれで記述としての側面を強調する必要がある。逆に、ハイエク流のモデルをモデルとして使おうと徹底すれば、ある種の自己言及パラドクスのような問題を組み込みながら行為するという話になる。