理論がない?

最近の論文のトレンドとして変な感じだったことの一つに、理論が必要という指摘がある。もちろん、理論がなければ論文にはならないわけで、そのために先行研究レビューなどがあるわけだが、ここでいう理論というのは必ずしもそれのことではなく、感覚的には、理論を説明するための理論のようなものである。

例えば、ブランドコミュニティ研究を元に、ブランドコミュニティへのアイデンティフィケーションと口コミ意欲の関係を実証しようとする。この場合、ブランドコミュニティ研究が先行研究として理論ということになると思うのだが、だからと言って、アイデンティフィケーションが口コミ意欲に影響することを調べた論文をこのまま書くと、多分、理論がないと言われる。

必要なのは、アイデンティフィケーションが口コミ意欲に影響することを説明する理論である。それはブランドコミュニティ研究のことではない。ようだ。

確かに、この手の最近の論文を見れば、社会アイデンティティ理論などがよく紹介されているし、より広い範囲だとSORモデルなどが使われている場合もある。これらが必要だというわけである。レビュー論文でも、どの理論が使われているかを書いてある研究が増えてきた気もする。

変な感じがするのは、ブランドコミュニティ研究がやっぱり理論では?アイデンティフィケーションと口コミの関係に注目し説明づけてきたのではという感じがするからである。確かに、理由が必要と言われればその通りだが、そこにさらに理論が必要だと言われると、ではブランドコミュニティ研究というのはなんなのだろうと思う。

ブランドコミュニティ研究とは、単なるテーマであったり事象の集合体ということである。!?これは正直パラダイムチェンジであり、研究の見方が変わる。

この転換を行えば、理論が必要なことがわかるとともに、事例研究でよくあるパターンを再検討するきっかけにもなる。それがいいかどうかは引き続きわからないが、あくまでいろいろ考えるきっかけとして。

どこかの企業の事例を書く。マーケティング戦略を紹介する。それらを、ダイナミックケイパビリティとか価値共創の視点から分析したり解釈したりする。解釈できれば理論の説明範囲が広がったことになり、うまく解釈できないのならば、理論が限定されたり、いつか理論が更新される機会となる。

これまで、こうした事例研究の書き方はあんまり良くないと考えてきた(多分、一般的に、考えられてきた)。事例を説明するのではなく、理論を説明してくださいというわけである。だが、事例研究はこの形ではダメだが、実証研究は最近は実はこの形ということになると、トータルでの説明はつかなくなってしまう。

例えば、事例研究の場合はかつてのトートロジー批判を言えるのかもしれない。なぜこの企業が成功しているのか。価値共創の観点から考える。この企業はだから成功している(失敗している)。この組み立ては、最初の企業から価値共創の有用性を想起しているのだから、改めて価値共創の有用性をその事例で説明しても意味がない。一方で、実証研究の場合は、前者による仮説の導出と、後者の実証で対象を変えるのが普通であるから、この指摘をかわすことができる。もちろん、この違いは程度問題である。

事例研究だと、単に解釈できるという話になりがちだからかもしれない。この現象は価値共創と呼べるとか見做せるとか、ここではダイナミックケイパビリティが機能していると言われても、それは単に事実を同定したり言い換えているだけであり、そうとも言えるかもしれないが、だからなんなのかという感もある。一方で、社会アイデンティティ理論を用いるという場合には、要因間のつながりを説明するものという意味合いがある。ただこの場合は、問題は事例の方ではなく、理論と呼ばれているものの方ということかもしれない。理論だと思っているものが、実は事象の集合体に過ぎないということである。

要因を特定し、要因間の繋がりを説明するものが理論である。と、最近はみなされる。それが良いとはまだあまり思えないけれど、そのように考えて論文をまとめること自体には意味がある。たぶんいくつかは。


2025年04月30日 | Posted in エッセイ | タグ: Comments Closed 

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