ブランディングは中動態とか?

石井淳蔵『進化するブランド オートポイエーシスと中動態の世界』 碩学舎,2022 年
中動態の議論が後ろの方で出てきます。正面から扱うにはちょっと難しいのかもと思いつつ、その使い方を考えるのが研究でもあります。
すでによく知られるようになったように、中動態とは、能動ー受動の第三項というか、従来は能動ー中動という記述スタイルだったということです。本の例だと、山を見る、山は見られる、山が見えるですかね。
山が見えるをブランドに当てはめるのは比較的容易のように見えます。ブランドがある的な(ただしあるにすると能動態)。この理解は、一方のオートポイエーシスとも繋がりがよく、ブランドがオートポイエーシス的なシステムであることにも発展します。こちらについては別途博報堂さんのサイトでまとめました。あと、ラトゥール的な、ものが主体の世界観にも合うかもと思いましたが、これは当人も言っていたようでもありました。
しかし、中動態はオートポイエーシスとは違うものでもあります(ラトゥール的に主体と客体の支配関係の不在と見ればまあ繋がるかも。あるいは、芸術とかはそうみえるともいえるのかも)。個人的に大きなポイントかと思うのは、態の問題は、基本的に名詞ではなく動詞だということです。この場合は、見えるとか、あるが、中動態的に利用できるかどうかがテーマのように思います(中動態的自己のように、主語を私として固定すれば、同時に議論はできそう)。
バンヴェニストの例で言えば、育つはブランドとも相性がいいように見えます。ブランドが育つ。このとき、育つブランドは育つという過程に巻き込まれていて、かつ、それ自体が単独で育つわけでもない。
ちょっと飛ばして、政治の文脈では、アガンベンは使うも中動態とみなします。主人が奴隷を使うとき、主人はその過程に巻き込まれており、奴隷もまたその身体を使うという点において受動的とも言い切れないということのようです(難しいかも)。ブランドを使う、ならばより一般的かもしれません。
であれば、ブランドを動詞としてみればどうでしょう。すなわち、ブランドと言わずに、ブランディングすると言えば、それ自体が動詞にもなり、視点も変わります。ブランディングするは能動態、受動態、あるいは中動態でしょうか。
おそらく、多くの人はブランディグするという動詞?に対し、企業という主体を想定するでしょう。すなわち、企業はブランディングする。このとき、ブランディングされる対象はその企業が売っている製品・サービスかもしれませんし、当の企業かもしれません。であるとすれば、ブランディングするは能動的な対象への外からの働きかけではなく、自らを巻き込んでいるという意味において、中動態的な表現と見ることができます。山が見えるのように、自然と存在している状態だと考えることもできそうです。
さらに、中動態的なブランディングするという表現は、その活動が自分だけでは完結していないことを含意します。つまりは企業が自由に自分をブランディングできるわけでなく、育つと同様に、そこには消費者を含む多様なアクターの影響が想定されることになります。特に消費者の場合は、それをブランディングする気もあまりないでしょうけれど、結果的に、人々の利用こそが最大のブランディングであります。
ブランドを中動態から捉えるというアイデアは、ブランドではなく、ブランディングするという動詞?に対する理解を深めるとはいえそうです。それはマーケターや企業が何かをしたい、何かをするということではなく、ましてや消費者のイメージや頭の中に働きかけるということではなく、当の企業が巻き込まれている事態であり、ブランドを取り巻くアクターの相互の影響を考える必要があるということです。
ちなみに本書では、名詞ー動詞に合わせて、ものとことを用いて動詞の名詞化が紹介されています。多くの動詞(や形容詞)は、すぐに名詞化されもの化されてしまうというわけです(懐かしい)。ブランディングするという動詞状態が本来で、ブランドは名詞化された結果だと考えてもいいのかもしれません。実際、ブランディングと言う言葉も多く使われていますね。。そうすると、理論的にもbecomingのような議論にも接続可能となります。
ここからどうしようかなと迷うところです。いや、考えてみれば、マーケティングするも中動態的ですね。
<続き>
引き続きいくつか本を久しぶりに読んでいて、ラトゥールとか中動態の話だったのだなと思う昨日今日です。このラインで行けば、ブランドが見るー見られるでもいけるかも。
曰く、言語が私を語るとは言いうるが、直感的には変。そこで言語をラングとパロールに分けていよいよ袋小路に陥る。はい。そうではなく、言語が私を(に)語らせると言えば、そんなにおかしい表現ではなくなる。言語が私に語ることを可能にするという感じ?中動態が示すのは、日本語的に可能にしているという状態。
ブランドは私に使わせる。ブランドは私に言わせる。ブランドは私に買わせる。日本語だと強制のようにも見えますが、使うー使われる、言うー言われる、買うー買わされるという支配の関係と比較してみれば、・・させるは弱い。かつ、どちらも支配的にならずにすむ。支配的になりたいのはやまやまですが、支配的になった場合には関係は固定化し、驚くことは支配の反転、革命以外は無理になる。創造されたものは、創造者にとって常に驚きであるし、そうであった方がいい。中動態は、その中で驚き合うことを可能にしている。
ブランディングするも、そういうことだと考えてもよさそう。企業はブランディングし、いつだって作ったものに驚かされる。消費者も実はブランディングに関わっていて、それを当たり前のように使う(しかしアフォードされている)。時々固定化して、うまいブランディングとか言ってみたりするけれど、そう言うものは長続きせず、顧客はいなくなる。顧客もアフォードに過剰になれば、今の時代よろしくステマとして炎上させることもでき、結局そのブランドはなくなっていく。支配したい、固定したいという欲望は誰にだって多分生じる。
この関係がwin-winとも少し違うように見えるのは、むしろwin-winではないところがあるということかな。普通のwin-winも全体としてはそうなのだろうけど、焦点が違う方にある。あるいはwinとかloseではなく、それは支配するーされるだから、その前にあるさせる状態が大事。私は自分の意思で買っているのでもなく、私は誰かの意思で買わされているのでもない。私は買えている(この表現があるかどうかわからないけれど)。
組織の改革もこの感じかもしれない。よりよく、より稼げるように改革し、どんどんと精緻になっていく。そのうち動きづらくなって、そもそも最初のままが良かったのでは、、、となる。精緻になり続けたり、上手く生き続けるためには、させる状態が大事。急ぎということでガラガラポンするという手はもちろんあるが、それは破壊。








