誰かの願いが叶うころ(昔書いた)

宇多田ヒカルの2004年の一曲。昔聴いてすごく印象に残っていて、どこかでその話を書いていたはずですが消えたしまったようなので、うろ覚えがてら改めてまとめておきます。昨今の生活の中でふと思い出した次第。

全体的に暗いこの一曲。映画キャシャーン?のテーマ曲ですかね(みたことはない)。10年以上経った今としては、いろいろ別のことも考えてしまうところですが、当時のイメージだけに集中してみる。

昔書いた通り、この曲は、(人々の)願いを叶えるという幸せの可能性を問うているように思います。そして他のサイトを検索してみても書いてある通りでしたが、印象に残るメッセージは一つ「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いているよ」。

この主張は、その前で示される歌詞を含めたいくつかのバリエーションの一つです。あなたのための幸せ(あるいは不幸)の形は一つではない。

第一形態は、(あなたとの)自分の幸せを願うことで、「私の涙が乾くころ あの子が泣いてるよ」という状態です。これは、私にとって最も理想的であるはずの幸せの形です。ただし、私の願いは叶うけれど、その結果、あの子の願いは叶わなくなる。この状態では、単純に言って世界の半分の人々は願いが叶わない。ある人が幸福になることは、ある人が不幸になることと一対一で結びついている。

そこで、願いが叶わない人や不幸を少しでも総体として減らそうとする。それが第二形態としての、「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ」。ここでの「誰か」とは具体的な一人ではなく、不特定多数のほぼみんなという意味だろうと思いました。ほぼ、みんなの願いが叶うとき、それによって叶わなくなる不幸を誰か一人に決定的に押し付ける。その結果、ほぼみんなの願いは叶う。けれども、「あの」子だけは泣かねばならない。

どうしても「みんなの願いは同時には叶わない」。社会として、ほぼみんなの願いは叶うけれど、少なくとも、誰か一人の願いは決定的に叶わない。この状態は、やむを得ないとして受け入れるという選択肢がありえます。

もっといえば、不幸を押し付けられたあの子が究極的に不幸なままであるかどうかはわかりません。この曲がイメージさせたのは、『構造と力』に登場する交換体系が成立する世界であり、一対一のダイアドの関係が集約されて社会になり、さらには、不幸を一手に引き受けた奴隷が反転して王になるというツリー構造でした。人身御供となった人は、翻って神にもなる。懐かしい言葉で言えば、否定神学的な?

しかし、その当時であれ、今であれ、不幸にせよ権力にせよ、一手に集中させていいのかどうかは迷うところです。結果として、この曲で見出されるのは、もう少し別の選択肢でした。私は「あなたを抱きしめたい、できるだけ・そっと」。本当は、私は「あなたを抱き寄せたい、できるだけぎゅっと」。けれども、それでは願いが叶わない人が少なくとも一人現れてしまう。その一人も少しでも救おうとするのならば、選択肢としてあり得るのは、不幸を、ひいては幸福をみんなで少しずつ共有することだというわけです。

それはもちろん、簡単に得られることではない。だからこそ、最後の一言には覚悟として空白がいる。時間的な遅れかもしれない。その覚悟を優しさと表現したのかなと思いました。

実現はなかなか難しい。地球が回れば、いつかそのようになるかどうか。やはり覚悟がいるのだろうなと思う今日この頃でした。(改めて曲を聴くと、ここでのあなたや君というのが、不幸を一手に引き受ける=みんなに必要とされる一人、つまりはヒーローだとも聞けますかね)。

 


2017年08月10日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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