縮小再生産としてのPDCA?

PDCAの隆盛と批判
プラン・ドゥ・チェック・アクションの繰り返しとして知られるPDCAは、古くはQCAとも関連した日本企業の強みとされてきました。今日でも、PDCAを回すことの重要性はしばしば語られ、より多面的に、そしてより高速化することが求められています。
一方で、近年ではPDCAの限界を見極めようとする議論もさまざまであり、計画よりも実行を重視することや、あるいは常にチェックされることのやりにくさ、さらにはPDCAが結局のところ縮小再生産にしか繋がらないともされます。
個人的には、PDCAは多くの活動の基本であり、もし持続的に何かをしようと思うのならば必須だろうと思います。逆に個人としてPDCAがなんだかめんどくさいと感じる気持ちは、ようするにそこまでコミットしたくないという感覚の現れであり、実際にどうするのかは資源配分の問題かもしれません。

PDCAの限界:実行が大事?
この議論は古くから聞かれるものだったように思います。実行を最初に持って来た方がいいという話や、あるいは、計画にはそんなに時間をかけない方がいいという話もありました。この点については異論のないところだろうと思います。やってみることがとても大事であり、計画はそのための動機付けだったり、チェックや改善のための突き合わせの資料として見た方がよさそうです。
とはいえこの考え方自体は、PDCAを否定するというよりは重要度を再確認しているものであり、実際のサイクルの中では、実行と改善が繰り返されていくという点で問題はなさそうです。

PDCAの限界:チェックされたくない?
これは個人的な気持ちとしてよくわかることであり、とくに計画を明示化する手間や、その結果を報告して次をどうするのかを考えさせるというのはとても面倒な話です。人によっては、もう全部任せてよ、ちゃんと成果はあげるからという天才肌の人もいそうです。PDCAがまわっているような組織では働きたくないという人もいるでしょう。とはいえ、個人としても、いつまでも天才でいられる人はほぼいないと思います。どこかで行き詰まった時、PDCAのようなアイデアを考え直すことにはなるように思います。あるいは個人としての飽きや興味の移行を相対化し、継続化させるという点で、PDCAは個人に対する仕組みとしても機能します。

PDCAの限界:縮小再生産につながる?
実は最近まで、この問題はPDCAにとって大きなことなのではないかと思っていました。が、そうでもないのかもと思うようになりつつあるのが今日この頃です。計画を立て、やって見て、結果をチェックして改善するという一連の流れば、当の計画がうまくいくように修正が進む一方で、偶然性や、何か思いがけないような発見の可能性を排除してしまうことになるのではないかというわけです。高速にPDCAを回せるようになればなるほど、この局所的な最適化が進むことになり、本当はあったはずのもっと大きな可能性が見落とされてしまいます。
とはいえ、考えてみると、多くの偶然性や想定外は、やって見た結果として引き起こされ、チェックされ、次の改善に生かされるともいえます。そこでは、偶然や想定外を取り込んだ計画を立てることはもちろん、偶然や想定外を偶然や想定外のままにとりおくことも可能です。すべてに答えなければならない、というほどPDCAのプロセスは強いものではなく、つまりすべてをプランの中にリストアップしていかねばならないというようなものではなく、むしろ焦点が移っていくことを積極的に認めるようなものな気がします。

とりあえず
特に結論はありません。基本はPDCAで、その上でPDCAについてはいくつか留意点があるというわけで、このあたりをもう少し考えてみるのがいいかもしれません。


2019年10月15日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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