デジタルと「世界」の成長性

21世紀に入った頃、second lifeというバーチャル空間を用いたオンラインサービスが話題となった。今でもサービスは続けられているが、当時興味深かったのは、バーチャル空間上で利用される仮想通貨リンデンドルと実貨幣の為替の存在と、同じくバーチャル空間上を構成する「土地」を実売買できる仕組みであった。類似したサービスは個々その後も発展しており、仮想通貨はブロックチェーン技術を用いて実貨幣と結びつき(通貨と言えるのかどうかは別にしても)、土地の方はまだ発展の余地がありそうだが、例えばクラウド空間を考えればすでに場所もネット資産も有償化されているともいえるし、NFTのような仕組みも広まってきている。バーチャル空間は無限である(正確には、この表現は正しくなく、都度有限化されることで価値が生じているが)とすれば、こうしたサービスは世界の成長性に大きな可能性を示すものだと考えられた。

かつてマルサスが人口論を書いた頃、世界の成長には明確な限界が設定されていた。この物理的な土地である。物理的な土地の量を超えて、世界は成長できない。確かにその通りだったが、同時に世界は、植民地化を進めたり、宇宙へ向かうといった古典的な方法だけではなく、土地そのものの生産量を増大させるという技術革新を通じて、ある程度の限界を拡張することに成功した。だがこれにも限界があるであろうし、なにより、土地をブーストする感覚は、土地の時間的な価値を先取りしてしまっている感覚も与えてきた。人間が地球のエネルギーを急激に吸い出し、地球がやがて枯れていくというしばしば映画やゲームによって示されてきた世界観は、実際の世界の成長の方策であったといえる。

 

土地という制約を超えることが世界の成長につながるとすれば、改めて、バーチャル空間の存在に焦点を当てることができる。2020年を前後して我々が感じ始めているのは、このバーチャル空間のイメージはsecond lifeである必要はなかったということである。あれほど綺麗に実世界とバーチャル空間を対応づけようとする必要はない。むしろ、現実にはすでにさまざまに不完全な形で、バーチャル空間は実世界と結びつきながら多層化している。興味深いことに、twitterの最初の発言もNFTを用いることで3億円の値段がついている。こちらもまた、2000年代以降の一つの世界観として、可能世界論を考えれば映画やゲームの主題となってきた。可能世界では、ifという形でさまざまな並行世界が存在しうる。そして時々交錯し、爆発する。

バーチャル空間を作り出し、維持し、活性化させるために、日々新しいサービスが生まれ、新しいビジネスが登場している。その多くは、私たちにはすぐには意味がわからないものばかりである。何かのデータのトラフィックを管理するサービス、何かのデータを複製したり削除するサービス、複数のサービスを取りまとめ、また共通化させるサービス・・・それぞれ何かの役には立っているだろうが、それがなくなるとどうなるのかはもはやよくわからない。これを映画やゲーム風に、可能世界が爆発的に増えていると表現することは、それほど間違っているようには思えない。そこに実体の人や実体の土地がなくとも、何かしらの空間が生まれている。

バーチャル空間の増大は、すなわち「世界」の成長である。物理的な土地の限界を超えて、世界は成長していけるし、実際にそのように成長し始めている。このところの株価の上昇や、あるいは世界経済の発展は、しばしばサービス分野、デジタル分野の発展であるとされている。その本質は、世界が多層化しているということであり、可能世界が作り出されることで「土地」が増えているということである。

20世紀の技術革新が危惧されてきたように、21世紀の情報革新もまた危惧され続けるだろう。結局は特異点となるこの現実の土地を離れることはできず、この現実の土地への負担はなくならない。だがそれでも、少なくともこの流れを根本的に止めてしまうようなことはできそうもないし、止めねばらならないという理由はあまり見出せない。ついていけなくなった人はどこかの土地(多くは現実の世界に回帰するのだろう)に残るであろうし、そうでない人々(多分、新しくて若い人々)は、フロンティアを目指すだろう。もっといえば、その時の「人々」は、別にリアルを軸にしている必要もない(これもひきつづき対立の軸になるだろう。ネットでの存在など、所詮は虚構に過ぎないのだ、といった風に。何が本物で、何は偽物かという問題は、いつになっても残る。)


2021年07月13日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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