論文は形式が大事。

年度末は、卒業論文や修士論文や博士論文など、たくさんの提出論文を読む時期です。いつものことながら、形式しっかりねと言うわけですが、これがまた浸透しない(笑
「盗用や孫引きはやめましょう」はともかく、
「パラグラフの最初は一文字空けましょう」とか、
「図表には番号とタイトルをつけましょう」とか、
「参考文献の書き方を統一しましょう」とか、
あるいは「章・節・項のスタイルを統一しましょう」とか、
まあくどく言うので聞いている方もうんざりする、のもよくわかります。
形式は理由もあんまりないので、
見やすさとか、
読みやすさとか、
こういうものなのだ、とか、
とかく権威主義的に感じられてしまうところもあるのかもしれません。
そんなことよりも内容をみてほしい、と思う気持ちもわかります。

しかし、論文はやはり形式が大事だと思います。正直、内容よりも。
なぜならば、形式こそが価値ある内容を創るから、というのが最近思う理由です。

形式にとらわれずとも、良い内容を書くことはできるかもしれません。しかし、形式に従うことで、初めて見えてくるものもあります。
パラグラフの最初の一文字を空けることで何が見えてくるのかと言われるとさすがにわかりませんが、これらを含めた論文の形式に従うことは、自分の頭や言いたいことから、少し離れることを可能にします。

数学の意義をうまく説明している森田さんの本や講演では、意味と操作という区分が出てきます。
数学は抽象的で意味を極力省いた世界であり、操作に従って先に進みます。意味を省くことで、僕たちは意味にとらわれる限り進むことのできない世界に進むことができます。
例えばマイナスの世界や、iの世界は、意味の世界のままでは考えることが難しかった世界です。
形式に従うというのは、この数学のような操作に従うということであり、意味は内容に対応するような気がします。

人によっては、自分の頭や言いたいことから離れてはダメなのでは?意味や内容がやっぱり大事ではと思うかもしれません。
もちろん、これらも欠かすことはできません。
操作に従うことで見えたマイナスやiは、意味の世界に引き戻されることで、今度は数直線状の右と左や、あるいは縦の次元として捉え返されることになります。
そしてその結果として、意味の世界はより豊かになり、ここからさらに操作に従う道も増えます。

論文を書くというのは、一つに、こうした形式や操作を使うということだと思います。
これは、証明の具体的な手法の話ではなく、より一般的に、論文を書くということ自体の特徴です。
エッセイでもブログでも、それから詩や歌でも、当然優れた内容を示すことはできます。ただこれらも論文と同じように、大なり小なり形式を備えています。
特に長い間培われてきた歴史のあるものほど、形式を持っているはずです。この形式を理解して従ってみることは、結果的に、優れた内容を創り出すことになるのだと思います。
逆に言えば、形式に従わずに書かれた論文は、操作を経由しない意味の世界だけで書かれたものとなり、プラスの世界だけの薄く平たいものとなる可能性が高まります。

まあ、本当に手間ばかり取られて意味や内容につながるのかどうかわからない形式や決まりもいろいろあるにはありますが。。。


2020年02月12日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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