「消費社会」について(卒論の場合)

応援消費についてまとめる上で、いくつかの案の一つとして、消費社会論として書こうかと思っていました。実際にはあんまりうまくいかず、最後に少し補足する程度にしました。この点については、先の消費の意味についてということで、少しだけですが書きました。

先日、改めて消費社会について昔何か書いたかなと思いフォルダを検索していました。ありましたね。自分の卒業論文でした(笑) ・・・というか、全然成長してないことがわかりました。基本的には環境が変わっただけ。

「僕がここで「消費」について考えるのも、同じ理由からである。僕たち消費者は、消費するから消費者である。ではなぜ消費するのか?考えてみる価値はある。p.1」

まだ答え出てなかったのかい!と突っ込みたくなりますね。しかも当時の方が賢い感もあり、ケインズを踏んでからの少しだけガルブレイス。

「例えば、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』の「第8章 消費性向」のなかにも、「わかりきったことを繰り返していえば、消費はあらゆる経済活動の唯一の終点であり目的である」と書かれている 。 p.3」

思い出しながらいえば、当時は消費関数の議論から話を広げたので、この流れになるわけですね。古い論文読んでましたね。。。デューゼンベリーの相対所得仮説とか懐かしい。

あと当時はマーケティングにそれほど毒されているわけでもないので、消費を生産者から捉える=マーケティング、消費を消費者から捉える=家政学・消費者行動、消費を商品から捉える=商品学という立体的な議論にもなっています。たぶん、消費を経済活動の中から取り出そうという狙いだったのでしょう(20年余経った今から見れば、これらの議論はほぼマーケティングに吸収されたと言えるのかも)。

そして、この後のつながりがちょっと悪いですが、商品それ自体に注目する商品学を経由することで、経済活動を離れ、文化活動の側に移行して「儀礼としての消費」と「文化と消費とシンボルと」。このあたり、「儀礼としての消費」では経済学の効用概念が批判的に取り扱われますので、前段ではケインズと合わせて無差別曲線についてもフォローしてますね。・・・結構記憶から抜けて落ちていたところ。あるいは、教科書ベースの議論になっていることから推察するに、当時ちゃんと理解していなかったところということかも。

「まず、消費の観念そのものを社会的過程の中に埋め戻すべきであり、それを活動の結果ないし目的としてみているだけではいけない p.33」ということで、たぶんこのメアリー・ダグラスの一節を使いたかったのだろうね、という感じが20余年経った今も感じられます。

最後はマクラッケンの置き換えられた意味について。ここでどうして終わっているのかよく覚えていないのですが、広告やファッションというマーケティング的な要素も入り込めるアイデアを確認して終わりということだったのかなとも思います。

「モノをとおして私たちは、 現在の環境がいまは 否定する理想の、ついの所有を愉しむことができる。p.39」ということで、消費をする理由にもなっているといえばなっているのかもしれないです。もう少しいえば、経済的な理由にもなっているし、文化的な理由にもなっている。

ソーシャルとか応援みたいな話はないですね。。。構造と力もないですね(こちらが出てくるのは、卒論を書いた後、数ヶ月後、このぐらいいいのかなと思って書いてしまったマーケのレポート。)なんにせよ、いくつかアイデアを再回収しました。ありがとうございます。


2022年08月24日 | Posted in エッセイ | タグ: Comments Closed 

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