ゴーストインザシェル(昔書きました)

昔ゴーストインザシェルの比較感想などを書いたことがあります。実際には、その時本当に書こうと思ったことはうまく書けておらず、その後の学会で報告のみしたわけでして、肉体からの自由によって解消されるはずの差別は、自由な肉体の選択という形で結局は残り続けるということでした。懐かしい。
Perils of Hollywood Whitewashing?: A review of ‘Ghost in the Shell’ movie
そんなこんなで随分と忘れていたのですが、最近佐藤先生にあれ読んだよと言っていただき、あ、そういえばと思い出した次第です。しかし、具体的に何を書いたのだったか思い出せず、2個ぐらい論点があり、改めて何だったかなと思ったので再確認を。
一つ目は、ハリウッドの映画版がロボコップみたいということでした。こっちは覚えてます。欧米スタイルなので、基本的にアイデンティティ探しになっていて、私ではなくて存在とは何かといった問いが消えてしまう。よく、日本人は自分がない、他者志向だと言われますが、そういうことではない。今言うのならば、アイデンティティを探している「お前」は誰だよということだと思います。欧米だと探すべき対象が「私」であり、日本だと私が探すといえばいいのかも。何を?存在を、です。だからいわゆる青い鳥パターンも欧米的で、探していた「私」がこの私だったのだ的な解決もない。最初から私は私、そしていつまでも道に終わりはないわけで。(まあ最近は混ざってきているのでいろいろありそうです)
でもう一つが我ながらいいポイントだと思っていたところで、とはいえ記憶が曖昧で、そうそう、トグサの件でした。トグサは草薙班で唯一ほぼ人間で、映画版では人間の古さだけが強調されていて、草薙との重要な会話がたぶんカットされている。実際には、規格化された機械は、その規格ゆえに一括して攻略される可能性が常にあるが、そうではない人間や自然は常に誰かが生き残る可能性があるということでした(だからチームに入っている)。多様性がなぜ大事なのかと言う時、それは瞬間的な成果というよりは、長期的に生存の確率を高めるリスクヘッジなのだと思った方がいいのではと思います。
といったことを思い出しながら、まあなんだろうな、、と思う今日この頃です。そういえば、以前好奇心と向上心、あるいは探究心も書きましたね。いよいよ懐かしい。