文章をグリップする能力

「風立ちぬ」スタジオジブリ。(トトロのお父さんの執筆シーンを探したのですがまだなかったので。。。)

読み書きできるのは当たり前の今日、文章を書くことは、ほとんど息を吸って吐くことと同じようなものと見なされている。とはいえ、実際のところ上手い文章と下手な文章はあるわけで、この違いはなんだろうとも思う。最近思うのは、文章をグリップする能力が一つの要素かもしれないということである。

文章をグリップする能力というのは、文章の全体を意識しながら部分を書いたり、部分を書きながら全体の再構成を考える能力である。グリップする能力がどのくらいあるかわかりやすいのは、文章の量を増やした場合である。ツイッター文章をグリップすることは容易だが、1000字ぐらいからできる人とできない人に別れる。1万字ともなると、いよいよグリップが難しくなることが直感的に予想できる。論旨が揺れることはもちろん、使われている言葉の意味も揺らいだり変わったりしていく。

おそらくこのグリップする能力は、日々その量を書くことで訓練される。合わせて、書かないとほぼ絶対に上達しない。書くこと自体はあまりに当たり前になっているので、ある程度他の能力があればできるように思えてしまうが、実際には違う能力のようである。その点では、学生の皆さんには授業で毎週400字ぐらいのレポートをお願いしているが、これはいい訓練になっているのかもしれない(面倒でしょうけれど、もう少し多めの方が訓練にはなりそう)。

このところ個人としてそれを痛感してきたのは、英文を書く場合である。現状、日本語であれば、数万字まではグリップできるように思うが、英語の場合はそうはいかない。半分以下、あるいは数分の一程度までしかグリップできない。この経験を通して思うグリップする能力の重要な特徴は、記憶しておくということである。文章の前や後を記憶していて、それによって全体と部分を調整している。あるいは、もっと単純に用語や表現の統一も記憶していて、過度な使い回しにも注意を払うことができる。ところが英語の場合、記憶しておくことが難しい。もちろん、だいたい何を書いているかは自分で書いている以上わかるのだが、その解像度がとても低くなっている。

これも結局訓練としては書くしかないということになるのだろう。合わせて、日本語でも同様の方法として、小見出しや目次を上手くつけて文量を圧縮して記憶するという方法も有効である。これを上手くできるようになると、パラグラフを入れ替えるような作業ができるようになる。

個人的にこんなことに自覚的になって来たのは、なんのことはない、歳をとって記憶力が落ちてきているということもあるだろう。それから、ツイッターばかりだと、能力が落ちてきてしまうのかもしれない(逆に、それを逆手に取った新しい文体への挑戦もできると思うが)、文章をグリップする能力をもう少し意識して日々生活した方がいいような気がする。今日この頃です。


2021年01月25日 | Posted in エッセイ | | Comments Closed 

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