マインドセットのズレ

昔していた通期の研究会が終わった後、ある方が、「彼はマインドセットが最後までずれたままだったね。」と言われたことを覚えています。特に批判というわけではなく、ある種の事実というか、共有された感覚を確認した感じではありましたが、そうですね、と思うとともに、そういう風に表現するのかと思いました。

実際にマインドセットと呼ばれるものがなんなのかはともかくとして、この方が言われたことはよくわかる気がします。例えば誰かの講演があるとして、その後質疑になります。基本的に個々人が思っていることを自由に発言しますが、重要な点として、本当は自由には発言できません。その場がコンテクストとして働き、その場にふさわしい質問を自動的に選び出しているからです。極端な話、大事な政局の話をしている場において、今日のご飯の質問をする人はいないということです。

こうした圧力は、人々に沈黙を強いるものであるとともに、その多くは無意識に機能しており、慣れてしまえばそんなに気にして沈黙につながるわけではありません。そしてこの結果、質問にはより適切かより適切でないかといった優劣のようなものが生まれます。マインドセットがずれているというのは、例えば、こうした質問において劣った質問が多いということです。そんなことを聞いてどうするのだろうか、何故その質問をしたのだろうかとその場の多くの人が思ったということでもあります。

もちろん、当人はそれが大事で興味があったからだというでしょう。これがマインドセットの本質かなと思ったわけでした。その場で多くの人が大事だと思い、興味があることとは異なることについて、自分は興味を持っているというわけです。それは独自性でもありますが、ずれていることに気づかなかったり、修正することができないことは問題でもあります。

大事だと思うことや興味を持つことは、人間のかなり根本的な性向であると考えられます。したがって、一長一短に変えることや、調整することは難しいです。特に歳を取れば取るほど、その傾向は強まるでしょう。したがって、マインドセットを合わせられるようになるためには、時間がかかります。また、本人の別の意識、例えばマインドセットをメタレベルで認知し、コントロールするような意識が必要になりそうです。

マインドセットは、もっと卑近な人間関係や交友関係に結びついているように思います。仲が良い友達とは、大体同じような興味や感覚を持つものです。同様に、研究グループのようなものも、マインドセットが一致しているかどうかで結果が変わるような気がします。ある場においてより良いマインドセットを理解し、共有することが大事そうです。


2023年10月18日 | Posted in エッセイ | | No Comments » 

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