観察法が導く答え

3年の森桶です。今回は「1からの商品企画」という書籍を使って観察法という商品企画のプロセスについて考察しました。先生から出された問いに対して自分なりの考えを書くという形で進めましたが途中から頭がこんがらがり非常に混乱しました。

観察法・・・商品企画において人の言ったことや客観的事実などの顕在ニーズではなく、言葉にされない人の思いである潜在ニーズを導く方法

統計を観察法と呼ぶことがなぜ間違いなのか。

(商品の購入者から設置場所の写真を集めた統計を批判している。)

 観察法の定義は言葉にされない潜在ニーズを読み取ることが目的である。

統計を取ることは一見これに当てはまるようにも見えるが、統計を取るだけでは潜在ニーズは汲み取ることが難しい。なぜなら、観察法には対象の基礎知識が必要だからである。対象についての土地勘がなければ、周知の事実を気づきと勘違いしてしまうことがあるからだ。統計を取ることに基礎知識は必要だろうか。さほど必要ではない。さらに今回の事例に関しては全く基礎知識がなくとも統計を取ることができるだろう。統計を取ることを観察法と呼んでいては、気づくことも浅はかなものになりかねない。

話を変えると、その基礎知識をもっている状態で観察を始めたと仮定する、するとその観察の方法として3つの方法が挙げられる。それは「見る」「頼む」「試す」である。今回の統計という事例で統計を取ることは、観察法の手法として「見る」が一番近いものだろう。

 「見る」は、無意識に実際の状況や前後関係の中で、人がどのような行為をするかを観察する手法である。と述べられている。

 統計を取ることも一見これに該当するようにも見えるが、統計を取ることは実際の状況や前後関係の中で変化がみられるのか疑問でもある。批判対象によるところもあるが、今回の設置場所といった場合には、前後関係にもあまり左右されるとも思わない。意識して決まった場所においているだけかもしれない。これでは顕在ニーズしか読み取ることはできないのではないか

要するに統計を取ったところで客観的な傾向が分かるだけでその深みにある潜在ニーズを求めることは難しいと考えられる。

なぜ統計的な事実に従っても潜在ニーズをうまく拾えないのか。

統計的な事実では先ほど述べたように顕在ニーズを拾うことになる。理由は基礎知識を考慮しない統計をとるだけでは表面的なニーズしか読み取ることができないからだ。

また、潜在ニーズとは本人すら気付いてないことであり、読み取るには自然な人間の行動を観察し、複雑な前後関係から見えなかった傾向を導く必要がある。統計的な事実は客観的な事実は導くが、そこから一人で思いつかないような画期的な発想は出てこないだろう。出てくることは誰かしらが思いつくような発想に留まるものだ。

統計的な事実では潜在的なニーズを拾うことはできないのか。

統計的な事実からは画期的な発想は出てくることは難しいと思うが、一つの手段としては有用になることもあるだろう。例えば多くのユーザーを調査するのが困難な場合、統計に基づきあるグループに属するユーザーを限定的に調査することも可能である。

また、極端なユーザー(潜在ニーズを発見しやすい)を統計とを取ることで発見することもあるだろう。

統計的な事実から直接潜在ニーズを得ることは、やはり難しいと考える。

もしあるとすれば、平均的なユーザーと異質なユーザーとの違いから見えるかもしれない。

両者の統計分析における前後関係からその違いの理由を求めることでニーズの中庸したものや両者とも網羅することで潜在ニーズを発見できることはあり得るのではないか。

観察法で何ができるのか。

 観察法の他との違いは自然体の人間から得られる発想を非常に重視している点だと考えられる。それは個人の偏見を取り除き、本当に人間が欲しているものを追っている。人の人生はそれぞれなので口から発することには、その人の今までの生き方によって歪められた表面的なニーズになっており、本当のニーズに気づかないのだろう。人間という生き物が生まれながら共通して持つ欲求、ニーズを導き出すことが観察法の最終目的であると思っている。

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