齋藤孝『原稿用紙10枚を書く力』だいわ文庫、2007。

 日々文章がうまくなりたいと思っているわけですが、なかなか上達しないというのが実情です。書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局一日に数行程度しか進まないということもよくあります。何とかならないかなと思いながら、一方で、ブログや、あるいはツイッターならば一瞬で書けるわけで、この差は何なんだろうと思ったりするわけです。

 原稿用紙10枚、ちょうどいい文量だと思います。原稿用紙1枚が400字だと思いますので、4000字。ワードのデフォルトのページだと、3ページぐらい書けば4000字になるのではないでしょうか。このぐらいの文量を、ブログやツイッターを書く感じで書けるようになりたい。

 いやいや、量よりも質が大事だと言うかもしれません。しかし本書によれば、むしろ量をこなすという目標から入ることで、徐々に質が伴ってくるのだと言われています。確かに、毎日とにかく量をこなすことによって、だんだんと書くスピードも速くなるでしょうし、こう書けばいいのだという型も分かってくるように思います。文章がうまくなりたいのならば、とにかくたくさん書くことだ、というのは一理ありそうです。

 たくさん書く、さらには質のいい文章を書けるようになる練習として、3つのキーワードを抽出し、その上でそれらをつなぐ論理を考えてまとめるというのも、面白い方法だと思いました。昔、自動書記のようなことを遊びというか練習でやっていて、とにかく適当に書いた一行目からはじめて、連想を広げて好きなことを書いてみるということをしていました。これだと、キーワードが1つしかないので、本当にどうなるか分からない。けれども、3つのキーワードを最初に思い浮かべて、それらをつなぐ論理を考えていけば、かなり安定的にいろいろなことを書ける気がします。

 なんにせよ、人のことは言えませんが、文章を書くというのはとても難しいことです。にもかかわらず、文章自体は誰でも書いたことがあるわけで、書けるわけです。多くの人は、それを特殊な能力だと思っていないような気がします。文章の書けない人のいかに多いことか。。。訓練することがとても大事なのだと思います。

 誰でも走ることはできますが、100メートルを9秒で走ることはほとんどの人にはできません。おそらく文章を書くということも、いい文章を書くことは、ほとんどの人にはできないことだろうと思います。そして重要なことは、ここでいう「いい文章」というのは、ノーベル文学賞を取るレベルのことではなく、原稿用紙10枚を書くレベルのことなのではないかと思った次第でした。

歯医者のセグメンテーション


歯科素材屋さん

日本に歯医者はいくつあるか?
先日聞かれてわからなかったのですが、答えは約7万。コンビニが約5万3千らしいので、コンビニよりも歯医者の方が多いことになります。確かに、あちこちに歯科ありますね(にしても、「コンビニより多い」という言葉は、いつの間にか量の多さを示す典型的な表現になりました。)

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コンビニより多い歯科医の数 ワーキングプア化するケースも
コンビニより多い歯科医が悲鳴! なぜ歯医者さんの給料は安いのか
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数が増えれば、当然のことながら競争も激しくなるわけで、給料が安くなったり、いろいろ問題がおきるということもあろうと思います。その一方で、競争に生き残ろうとすれば、例えば、マーケティングを考えようという話にもなるわけです。それはもちろん、がんがん宣伝しようということではなく、もっと基本的な話として、お客さんは誰かを考え、彼らが何を必要としているのかを考え直そうということが重要になります。

セグメンテーション。顧客は絞り込む必要があります。老若男女、誰にでも来てもらえる歯医者が理想的であるようにみえながら、もはやそういう時代でもないのかもしれない。例えば、ハーツデンタルクリニックは、サイトを見れば一目瞭然、男性には入りにくい歯科医です。とはいえ、逆に言えば、小さい子供や女の子は、例え遠方であっても、この歯科医に行きたいと思うでしょう。

子供が歯医者に行きたいと思う?!これは画期的なことです。普通子供は歯医者に行きたくないでしょうから。顧客が絞り込まれることによって、その顧客が何を必要としているのかがわかる。その顧客に答えるサービスが提供されることで、その顧客の満足がより高まる。競争を前提にするのならば、公共サービスのようにみえる活動であっても、顧客の絞り込みが重要になります。

もう少しいえば、先ほどの歯医者を他の歯医者がみれば、今度は小さい男の子向けのサービスや、あるいは逆に大人向けのサービスもまた選択史があることがみえてくるかもしれません。それぞれはセグメントを絞り込みながらも、歯医者市場全体としてはすべての顧客に答えられる。そういうことで良いような気もします。

ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』ブロンズ新社、2013。



ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』ブロンズ新社、2013。

 絵がかわいい。

 ついでに、ストーリーもいい。りんごに兄弟がいるかもしれないというくだりなどは、小さい子どもは絶対喜ぶと思う(この手のネタは、古今東西、こどもうけがいい)。

 あと余談として、大人も考えさせられる。どうして僕たちは、りんごをりんごとして知っているのだろう。常にそれは、りんごかもしれない存在であり、そうではないかもしれないはずにもかかわらず。触ってみても、ぐるぐる見回してみても、それから割ってしまったとしても、それは依然としてりんごかもしれないし、りんごではないかもしれない。

 もちろん、単なる懐疑の世界に入り込みたいわけではない。個人的な興味は、一つには、その懐疑の世界にあって、どうして僕たちはこれをりんごだと確信しているのかという論理であり、もう一つは、その懐疑の世界にあって、新しいものや価値を作り出すためには何ができるのかという論理である。

 一つ目の論理は、りんごはりんごであるというトートロジーな循環の中にある。絶えず問い直し、別の可能性を見いだしてもなお、それはりんごであるという強度。あるいは、やはりそれは流通の中にある。誰にとっても、それはりんごであるという強度。そう考えれば、もう一つの論理は、そうした循環や流通において見いだされるりんごではないかもしれない可能性を拾い上げ、合わせて、その可能性に別の名前を与えることとして捉えられるかもしれない。ブランド。

 といったことを考えさせられました。あとやっぱり最後のオチがとてもよかったです。りんごかもしれないという問いは、これはりんごであるorりんごではないという答えを要請しているわけでは、まったくない。思うに、こどもは、意外にも、このオチに耐えられるけれど、多くの大人は、耐えられない。