西垣通(2018)『AI原論』講談社選書メチエ。

水越です。こんにちは。

せっかくなのでこちらに。前回の『ビッグデータと人工知能 – 可能性と罠を見極める』(中公新書、2016年)は、正直なところ古い感じの印象が強かったのですが、今回の方はかなり先鋭的で、個人的な興味とも合わせ刺激的でした。おすすめです。以下、自分なりに分からなかったところも含めまして。

思弁的実在論に向けて
西垣(2018)は、シンギュラリティを始めとするAIへの不安や期待を素朴実在論にもとづくものとして捉え、相関主義による研究蓄積から批判するとともに、さらにAIの可能性にも言及しうる新しい視点として、メイヤスーによる思弁的実在論(『有限性の後で』)を検討する。この際の重要な点として、思弁的実在論では、素朴的実在論はもとより相関主義において重要な前提と考えられてきた理由律が取り除かれるとされる。この点は、AIの可能性を結果と理由の探求において考察しようとしてきた我々にとっても重要な知見を提示するものと思われる(「AIを活用したユーザーニーズの探索プロセスにおける「結果」と「理由」に係る一考察」(依田・水越・本條, 2016)。

まず西垣が出発点とするのは、カントのコペルニクス的転回以降、今日の多くの哲学は人間から離れて真理や法則、物自体を捉えることはできないと考えているということである。言い換えれば、人間という観察者の問題と、物自体がどういうものであり、どのように探求可能であるのかは不可分に結びついており、物自体を直接探求することはできない。相関主義とは、まさに物自体が人間という観察者との相関関係によってのみ定まるということを意味する。逆に、真理や法則、あるいは物自体を探求できるという考え方は、古典的で日常的な考え方として素朴実在論と呼ばれる。素朴実在論を哲学領域において支持する研究は多くない。私がどのようにして真理や法則に到達できるのかという問題は、それこそ素朴に考えて通常の論理では答えることができないとともに、むしろ到達できないことからはじめる(あるいは、できているのかどうかを直接的に問題としない)議論のほうが、実り多い研究知見として発展してきた。

今日の基本的な考え方のもとになる相関主義は、その一方で、自らの価値を強く主張することができないという問題がある。相関主義では、観察者と結びついて真理や法則の多様性を認めることになるとともに、仮に大きな問題があるようにみえる真理や法則に対しても、それを批判しまた否定する強い根拠を持ちにくいのである。例えば、40億年前に地球が生まれたという主張と、昨日私が地球を作り出したという主張が等価になってしまいかねないというわけである。

こうした問題は相関主義の絶対化であり、一種の反転を伴っている。ちなみに、これは定番の問題であるとともに、過去の議論において洗練されてきたように思われる。最もよく知られているのは、否定神学から展開される一連の議論であろう(『存在論的、郵便的』)。神の否定が、我々には肯定し得ない存在としての究極的な神の存在を肯定することにつながるという論理は、当の否定された神に唯一性ではなく複数性を仮定することもできる。あるいは、肯定に至る過程もまた複数化できるとともに、例えばその過程を時間や速度を設定すれば、また別の結果を見出すことができるようもなる。

思弁的実在論の特徴
こうした議論に対して、しかし、思弁的実在論ではむしろ逆に物自体への直接的な探求が可能であると主張することにより、相関主義の絶対化に対応しようとする。ただし、もちろんそれは素朴的実在論へ戻るというわけではない。理由律を棄却することによってその実現を目指す。

西垣によれば、この論理は2段階である。まず第一に、主観主義的形而上学が取り上げられ、相関主義の問題に対して、彼らは「主観に基づく相関主義自体が絶対であり、理由律を踏まえた必然的なものであるはずだと主張する(西垣, 2018, 80頁)」とされる。この際、絶対化が認められる主観とは、具体的には「ニーチェの『力への意志』、ヘーゲルの『精神』、ドゥルーズの『生』といった審級(西垣, 2018, 80-81頁)」が該当する。ただここで言う「主観に基づく相対主義自体が絶対だ」という主張がどういう意味なのかは、今ひとつはっきりとしない。いささか補足していうと、むしろ焦点は、後者の「理由律を踏まえた必然的なもの」という点にあると見たほうがいいかもしれない。例えば、ここでは例示されていないが、当の主観性ではなく、むしろ理由律を作り上げていると思われる言葉や形式、あるいは端的に論理への期待が示されているのかもしれない。それは例えば、この前で強い相関主義として言及されているヴィトゲンシュタインによる一節、「論理は超越論的である」を想起させる(『論理哲学論考』)。

こうしてひとまず主観主義的形而上学に焦点を当てることで、相関主義の問題を乗り越えるに際して理由律(あるいは論理)が重要になってきた可能性が見いだされる。そして、思弁的実在論では、この理由律を棄却することによって、物自体へのアクセスを担保できるようになるのではないかと考えるわけである。

ただこの点の説明も単独ではわかりにくい。「われわれ人間の『外部』にもはや究極的存在を仮定することはできない。ゆえに、理由律にもとづいて即時的存在の必然的なありさまについて語るのはおかしいということになる(西垣, 2018, 82頁)」として、主観主義的形而上学による強い相関主義への論駁が否定されるというわけだが、理由律自体が究極的存在というわけではないようにもみえる。論理は超越論的であるという主張を改めて想起してもいいのならば、論理は思考そのものであり、素朴な意味での外部ではない。あるいはここでいう究極的存在は、即時的存在としての物自体を指すのかもしれないが、であれば改めて理由律の身分が問われるとともに、それを棄却する理由がはっきりとしないままになる。

理由律を維持できない、あるいは維持しない理由が何かはっきりとあるかどうかはわからないが、少なくとも理由律を棄却してしまえば、結果として得られるのは「世界(宇宙)には絶対的な事実があり、しかもその事実の出現は『偶然だ』(西垣, 2018, 83頁)」という考え方である。主観主義的形而上学の主観が絶対であるという主張に対して、思弁的実在論では、偶然性が絶対であるとされることになる。当然、この世界が偶然としてあるのならば、それは観察者とも切り離される。一度切り離されれば、後はそれを数学的に記述することが正当性を持つという。

数学的に記述するという点についても別途確認する必要があるが(後段では「論理的・数学的に語ることはできる(西垣, 2018, 86頁)」とされる。これは理由律はや論理とどのように異なるのか)、それ以上にまずは偶然としてこの世界があるということの意味を確認しておく必要がある。この世界が偶然であるという指摘は、自然法則にも適用される。自然法則がそのようにして存在し、未来永劫機能する必然性はない。それが今あるように機能しているのは偶然だということである。

※(2018.6.7追記) 数学的に記述するということについて、千葉雅也は同様の指摘があったとして、以下のようにツイートしている。「そこは当事者の人たちの間でもブラックボックスみたい。メイヤスーによれば、実在それ自体は数学で書けるというわけだが、なぜ数学なのかは経験的な前提っぽいのよね。現に人間と関係なく数学で操作できてる事柄があるという。その関係ないというのは質的思考の外ということ。それは……身体の次元、行為、何かができる、ということか。」この認識は『数学する身体』を想起させる。数学(という形式)は、私達を、まだ知らないところへ連れて行ってくれる。

相関主義にせよ、主観主義的形而上学にせよ、これまでの議論で理由律が維持されてきたのは、一つには、論理性そのものが議論なりもっと素朴な意味での会話をこれまで可能にしてきたということであると思われる。と同時に、多くの相関主義や主観主義的形而上学において、物自体への探求を(アクロバティックな形で)可能にする方法として理由律は実際に有用だったからであろう。だが同時に、理由律を棄却してしまっても、あるいは理由律を棄却してしまえば、物自体が今ここにあるという事実性から議論を作り上げていくことができるのかもしれない。

AIとの接続と時間との関係
この理解は、AIには確かに都合の良い視点であるように思われる。まずは西垣が指摘するように、AIが人間知を超えた絶対知を目指すというのであれば、少なくともそれは相関主義を前提にしてはあり得ない。とはいえ、一方の素朴実在論のままでも上手く行かないこと(証明のしようがないというべきかもしれない)は自明なのであるから、そこでは思弁的実在論が有用性を持つことになるだろう。

それからもう一つ、我々の興味として、AIには理由律が不要であるという点もまた、AIには都合が良いように思われる。この点は、西垣ではむしろ限界のように捉えられているが(自然法則の永劫性すら無用になってしまうため)、しばしば指摘されるように、AIがなぜそのように判断したのかは、我々には理解できないことが多い。理由を与え、またそこに原因を見出すのは結局人間の仕事であるともされる。思弁的実在論が主張する物自体へのアクセス可能性と、その代償としての理由棄却は、いずれもAIに上手く対応するわけである。

ただし、AIが実際に理由律を前提とせずに何かしらの結果を出すという時、その材料となるのはビッグデータである。西垣では、この点についても、「過去のデータの分析によって作動する(西垣, 2018, 182頁)」として最終的に否定的に捉えている。これは今を生きる人間の可能性を担保することになるが、時間軸にどの程度厚みを持たせるのかは議論の余地があるようにもみえる。類似した議論として、過去の分析から未来は見えない、あるいは未来は過去の延長線上にはないという指摘はありうるが、もはや理由律が棄却されたのならば、AIがそのように捉えた現実はそれとして認められることになるのではないだろうか。

西垣では時間についての考察も行われている。「ここでいう『時間』は、科学的な理論モデルにおける時間パラメータとは異なる。・・・刻々とリアルタイムで流れていく、繰り返されない時間(西垣, 2018, 93頁)」であるともされる。他の用語を使えば、持続であったり、微分的である現在の重要性が強調されているものと思われるが、この時間を、AIが持ちえないのかどうか(あるいは逆に、人間が実際のところ持っているのかどうか)はよくわからない。

時間を検討するのならば、別途、『時間と自己』を参照してもいいのかもしれない。よく知られているように、『自己と時間』では時間に関する問題は精神病に対応づけられる。今を生きるという日常的な生活が上手く行かない場合、過去に固執しそこに留まろうとする鬱病と、逆に未来に生き急ぎ空回りする分裂病となる。そして、今にだけ生き続けようとする人もまた、躁病として捉えられる。したがって、日常的な生活とは、これらのどれかに生きているのではなく、3つ(あるいは2つ)の調整に他ならない。

もしAIが過去に止まるというのならば、それはようするに鬱病ということになる。「あえて言えば機械は過去に縛られているのだ(西垣, 2018, 184頁)」という指摘は、まさに鬱病を想起させる。だが同時に、その前段でクラウドAIネットに一定の評価がなされるとおり、当の過去(データ)は、刻々とリアルタイムで増えているのであり、ネットと結びついたAIは決して今現在与えられた過去に固執するわけでもない。それは人間的だといえるのかもしれない。

ということで、詳細については原著に当たりながら再検討することにしたい。少なくともいくつかの論点を用意できるだろう。