それでもものを欲しがる習慣

 大学生の時にゼミで読んだ本の一冊に、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』がある。とても印象深い本で、生産のための消費(何かのための消費)から、消費それ自体を目的とする消費の重要性を説いた本、だった気がする。うろ覚えだが、明日働くためにご飯を食べるというのは本末転倒していて、むしろ、食べるという消費行為自体をそれとして楽しむこと、その極として、茶道のような活動が見られる事になる。

 その後いろいろと本を読んだり、あるいはビジネスの話を聞くようになる中で、90年代には、「もの」から「こと」へというスローガンがたくさんあることを知った。今でも、マーケティングプランの一つとして、もの重視からこと重視へ、といった話は当たり前のように登場する。あるいは、ものではなく体験をといったような話も、同じ系統なのだろう。

 ものからことへという発想はよくわかる。けれどもその一方で、僕たちは、あまりにモノベースの発想に慣れてしまっているし、そういう圧力が社会的にあるようにも感じる。日常の生活でも、あるいはビジネスの現場でも、「で、答えは?」「で、どうしたらいいの?」と問い返すとき、何のことはない、僕たちは「答え」というモノを欲しがってしまっている。消費それ自体を楽しもうとするのならば、その問いはそもそもあり得ないはずだ。

 仕事は仕事、遊び(消費)は遊びということで分けた方が良いのかもしれない。けれども、元々の発想が生産のための消費を止めようということであったとすれば、消費のための生産もまた不毛であろうし(何も無理して消費自体を楽しむ必要はない)、ひいては、両者を別々に考えない方がいいということにもなるだろう。仕事の中にも、こと的な楽しみを見いだせた方が面白い。

 この点、研究という仕事はまだちょっと恵まれていて、答えに至らないようなぐだぐだとしたプロセスを楽しめる風潮がある。最後まで答えに至らないとそれはそれで困ってしまうが、あーでもない、こーでもない、そういえばこんなことが、あんなことがと考えたり話すプロセスが許されているように思う。この傾向は、日本的なのかもしれない。日本の論文やプレゼンは結論が後に来るから特徴的だよねと先日言われたけれど、ようするにそういうことかもしれない。

 仕事においてもプロセスを楽しんだり、プロセスを重視するような何かができるようになれば、面白いかもしれない。生産性が最終的に上がるのかどうか(つまり、モノが生まれるかどうか?)はわからないけれど、しばしば良い会社として取り上げられるようなところをみていると、そんな気もする。

San antonio

AMAに一生に一回ぐらいは行っておこうかと思った今日この頃。テキサスはサンアントニオに行ってきました。もっと暑いのかと思っていましたが、意外に寒いです。木にも葉がなかったことからすると、一応四季もある様子。

あー、スペインですな。リバーウォークすごくいいですが、もしかしてシエスタ?、昼間から飲めるんじゃないだろうかという、かつてのスペインの記憶だけがよみがえった次第。あのときは楽しかったですね。スペインに比べるとずいぶんと物価も高い気がしますが(時間が経っただけかもしれない)。ここはダウンタウンが本当に観光の街になっていて、治安大丈夫かなという意識とは無縁(もちろん、油断大敵ながら)。

空港のスタッフの方々がテンガロンハットをかぶっていて、テキサスのイメージはまさにこれだと思ったわけですが、それはアメリカらしいというよりも、スペインらしいというか、メキシコらしいと言った方が正しいのかもしれない(メキシコはまだ行ったことがない)。考えてみれば、もともと大航海時代に最初に新大陸についたのはスペインだったりポルトガルだったりしたわけで、イギリス的であったり、フランス的であるアメリカやカナダというのは、もう少し後のことなのかもしれない。

アラモ砦というものが有名らしく、たくさん観光客がいました。個人的にはあまりに馴染みがありませんでしたが、wikiなどを読むに、テキサスが独立するか(アメリカになる?)か、メキシコになるかの際に重要な拠点だった模様。ただここ自体はメキシコに落とされているようなので、一種のシンボル的な場所だったらしい。デヴィッド・ボウイの名前の由来らしいボウイ・ナイフは、このアラモで戦死したジェームズ・ボウイに由来するらしい。いろいろ発見があります。ちなみに、アラモ砦の向かいは蝋人形の館みたいなものが並んでいて、典型的観光地と思ったりもしたわけですが、子供はこっちに行って、大人はゆっくりアラモの中を見るという棲み分けなのかもしれない。

去年アトランタに行って、今回サンアントニオに来て、これまで南部のアメリカに来たことがなかったせいもあり、ちょっとアメリカのイメージが変わりました。初アメリカだったシアトルとはあまりにイメージが違いすぎます。。。あのときも、かっこいいスーツとコートで身を固めた人たちが、みんなスタバ(か、シアトルズベスト)のコーヒーを持って歩いていて衝撃的でした。

日本も地方によってそれぞれ特色がありますが、アメリカもそうですね。みんなマックを食べてコーラを飲んでとか(もちろんお店はありましたが)、そんなに単一なわけでもない。

研究の方法についての若干のアイデア

ちょっと忙しくて書くネタを思いつくこともなかったので、別途ぼんやり考えていたアイデアを少しまとめておくことにする。一応、マーケティング分析の範疇に入るだろうか。

2011年に反響のない本をまとめたとき、研究の方法として、事例研究とケースメソッド(ビジネススクール)の接続のようなところを書いた。その後、2014年にもう少しビジネスよりのリサーチの方法を少し書いたとき、ZMET、内観法、それからオブザベーションを紹介した。

実は後いくつか、ぼんやりと関連しそうな研究の方法があり、これらはいずれもそのままになっている。アクションリサーチ、ワークショップ、それから当事者研究である。これらがどう関連しているのかはよくわからないのだけど、いくつかの共通点はあるのだろうと思う。

2011年との関連で言えば、研究の方法として、理論的な話と実務的な話をうまくリンクさせるような(それは通常の意味での、仮説の正しさを経験世界で検証するという類いの意味ではなく)、そういうものだろうと思う。2014年との関連で言えば、より実務的な方法として、新しいものをうまく発見できたり、みんなで共有できるような、そういう方法なのかなと思う。

一昨年あたり、一番議論しやすいと思っていたのは当事者研究であり、ビジネススクールとのはまりがいいと思っていた。実務の方々がわざわざビジネススクールに来て、修士論文を書くとすれば、それは多分当事者研究に近くなる。その時、研究としてどういう新しさが得られるのだろう。元々の当事者研究は、精神障害者支援の中で生まれた方法であり、彼らが自身の症状を研究する。その目的は、問題の解決ではないとされ、問題を外在化させつつも、引き寄せて抱えなおすことが重要だと言われる。ビジネススクールの多くの修士論文でも、求められているのはそういうことのように感じる。


正直ここで止まっていたのだが、たまたまこのところアクションリサーチの論文を読んでいて、もう半歩ぐらいうまく考えられるような気がした。なぜか引用されていたハーバーマスの『認識と関心』によれば(といっても、読んでみてもそう書いてあるかどうかよくわからなかったのだが)、解放的利害は3つの方法の一つとして位置づけられる。この位置づけは、意外にも、僕も当事者研究がそうかなと思っていたことだった。似たようなことを考えている人がいるとすれば、やっぱり、アクションリサーチと当事者研究は同じような方向で捉えられそうだと思ったのだった。ビジネススクールと事例研究もこのラインで押さえられる、はず。。。

ただまだ、具体的になにが新しくわかるようになるのかがはっきりとしない。たぶん、この答えがわかれば、旧来の2つの方法の限界をうまく補完できるようにもなるのだろうけれど。もう少し実際にやってみながら、考えてみる必要がありそう。

WDW補足資料など

 ディズニーが面白かったので、売上の推移等を少し探してみました。データありますね。まとめて表にしておきます。

 現在ディズニーは5つのビジネスから運営されているようです。ただ、インタラクティブというのはまだ実験的という感じで、スタジオエンターテインメントも今ひとつ位置づけがわからなかったので、メインはメディアとリゾート、それからグッズ販売ということかなと思います。

 先のブログ「遠足は行くまでが一番楽しい」ではリゾートがすごいということだったわけですが、収益をみるとやっぱりメディアなんだということがわかります。営業利益の差がどんどんと大きくなっている。マジックバンドにしても、もちろん顧客関係のマネジメントとしてみることもできますが、大枠からいくとメディアとリゾートの連携を強めていくということなのかもしれないと思った次第でした。

ディズニーのメディア戦略というのはあまり知りませんが、関係ありそうな本もいくつかありますね。。(中身を読んでいないので参考程度ですが。)

 

マルチカルチュラリズム

カナダを代表する考え方と言えばマルチカルチュラリズムがあります。日常用語というよりは、国によって1971年に制定されたpolicyであり、しばしば、その定義について説明を受けたりします。それが実際問題としてどのくらい機能しているか自体が議論の対象となるわけですが、とはいえ、多様だなぁと感じることは多い今日この頃。


Canadian Multiculturalism

ということでJCCCの新年会に連れて行ってもらいました。総領事も挨拶して一大イベントという感じ。JCCCは一度行ったほうがいいと言われていたのですが、なかなか行く機会もなかった次第。噂にたがわずとてもきれいなところで、日系の方以外も剣道をしたり合気道をしていたりしました。毎年映画放映をしていたりもするようです。

入り口には池田タワーがあります。池田さんは、JCCCの元理事長で、教えてもらったところでは現在80歳。今回の会にも来られていてハーモニカを披露していました。ネットで探したらちょっと昔の記事を発見。


Japanese Canadian Cultural Centre

駐在の人もたくさん来ていたようですが、同時に、こちらに移民した人もたくさん来ていて、3世、4世ともなると日本語はもうしゃべれないかもしれないと。全体からみれば日系移民は少数と言われますが、しかしこんなにたくさんいるんだなと思ったところでした。コマとか竹とんぼとか、将棋とか囲碁とかで子どもが遊んでいて、しかし日本と言えばテレビゲームかもなと思ったりも(笑

で、そんなことを思いながら、スケートにも行って、それから帰りにたまたま寄ってもらったのは多分中国のお寺。

多様ですな。お寺では、中国語で何か話しかけられたのですが答えられず。仏教伝来の本等もたくさん置いてあったり、占い?の場所があったりして、以前行った香港の道教のお寺を思い出しました。そういえば、行く途中ではいくつもギリシア正教会のものらしい協会もあり、いよいよ盛りだくさんでした。

後で聞いたところでは、移住後に母国語を使わなくなるのは、日系移民の一つの特徴なのだそうです。他国の移民は、比較的母国語や自国文化を維持するらしい。規模の問題と、それから戦時中のキャンプが大きいのだろうということではありましたが、とても興味深い話です。移民とアイデンティティ(、そして彼らの消費行動)といえば、消費者行動、消費文化に関わる一テーマですね。


遠足は行くまでが一番楽しい

マーケティングに優れたサービスの一つに、ディズニーランドがしばしば挙げられます。日本のディズニーはもとより、本場アメリカのディズニーランドともなると、規模も大きく、場所柄もあり、子供でなくても楽しめます。

Florida, OrlandoにあるWDWに行く場合、その広さからして日帰りは難しいところです。近くにホテルをとるか、あるいはワールド内のディズニーホテルに泊まることになります。当然、予約をする必要があるわけで、今であればネットで予約が取れます。

予約をするということが意味するのは、ディズニーにとっては、いつ誰が来るのかを知るきっかけになります。この情報は、おそらくこの手のサービスにとって、とても大事なことです。なぜならば、「遠足は行くまでが一番楽しい」からです。いやもちろん、行ったときも楽しいわけですが、これは大事なことです。

ディズニーホテルの予約をすると、ディズニーから定期的に連絡が来ることになります。「あと60日ですね。」「今日からファストパスを選べますよ。」「荷物に貼っておくタグを送ります。」「いよいよですね、忘れ物はないですか?」メールでの連絡はもちろん、しっかりと個人名が書かれた案内状?まで定期的に郵送されてきます。いやがうえにも期待は高まります。特にディズニーがうまいと思うのは、あまりしつこさを感じないというところです(個人差があるかもしれませんが、ここがノウハウなのかも)。スパムという感じもない。

もし、予約を入れる必要がないサービスを提供している場合、この「遠足は行くまでが一番楽しい」過程に入り込むことはできません。そこはただ純粋にその人だけのものです。けれども、特にサービス財の場合には、プロセスの管理が重要になるといわれます。サービス・マーケティング・ミックスによれば、サービス財は形もないため、通常の物財以上の配慮が必要になるわけです。その一つがプロセスの管理です。遠足に行くまでを射程に収めるディズニーのマーケティングは、なるほどと思った次第でした。

ディズニーがサービスを瞬間的なものではなく、一連のプロセスとして捉えていることは、例えば、ソロモンの『消費者行動論』のテキストにも記載されています。

「ウォルト・ディズニー社は携帯電話がテーマパークでの経験を高めることに期待している。ウォルト・ディズニー・ワールドでコメディショーの列に並んでいる人は、テキストメッセージでジョークを送ると、これから見るショーの中でそれが使われるかもしれない。重役の1人はこう説明した。「ショーにとって必要なウォームアップの働きをするとともに、待ち時間にも客を楽しませることもできる」(第9章、ネット上のコラム)。」

意識せずに読んでいるとへーそうなんだというだけですが、サービスとはどういうものであるのか。その満足はどうやって決まるのかということを考えてみると、彼らの周到なマネジメントがみえてくるように思います。ちなみにたぶんこれ、Monsters, Inc. Laugh Floorのことかなと思いました。CGアニメのコメディショーなのですが、インタラクションで観客とやり取り(客いじり)するのがすごい。どうやっているのかよくわかりませんでした。アニメに見せかけて実際に声優がいるのか、あるいは、観客がサクラ?ではないでしょうし(笑

ちなみに、ホテルに着くと、噂に聞いていたマジックバンドがもらえます(アメリカ国内であれば、事前に郵送されてくる)。これ、2013年に導入されたというハイテク機器ですね。部屋の鍵や入場パスの代わりはもちろん、あちこちでスタッフが撮ってくれるデジタル写真を後でまとめてダウンロードできる(もちろん有料ですが)。


~ディスニーワールドの新サービス「マジックバンド」、今春にもRFIDチップを活用した「MyMagic+」システム導入へ~

今のところディズニーの外に出てしまうと役に立ちませんが(アクセサリーとしてはもちろん使えますが)、何となくやりたいことはわかるような気がします。ネットや、こうしたデジタル機器はユーザーとつながっている状態を作るのに都合がいい。ディズニーに行く前だけではなく、もちろん行っている時だけではなく、日常においても、うまく関係性を構築維持し、また時に働きかけられるようにしておくというわけです。

いや、よくできているなと改めて思った次第でした。

AIBOの「治療」を考える



つらつら新年の記事を眺めていて、みつけたのがこれ⬇

製造元に捨てられたロボット犬「AIBO」。”治療”にあたる元エンジニア集団

これは興味深い。年末ボケが吹き飛ぶ勢い(笑。ということで、少し書きながらアイデアを考え直してみることにします。

記事のベースになっているのは、1999年に発売され、2006年に発売が終了したSONYのAIBO。販売が終了しても、しばらくの間は修理部品を補完しておく必要があるわけですが、この期間も2014年3月に終了したということで、修理窓口「AIBOクリニック」もなくなったとのこと。これだけであれば、他の製品でもありそうな話ですが、ペットでもあったAIBOだけに、もう少し話がややこしい。

既存のユーザーとしては、ペットとしてAIBOに期待するものは、死なないこと。にもかかわらず、故障し、動かなくなってしまうのは正直意外。その保証がなくなってしまうことは、ユーザーの心情としては確かに受け入れ難いかもしれない。さらに、そうした心情をくむようにして、A・FUNという元ソニーの方の会社が修理を請け負うようになり、注目を集めているということ。

興味深く感じるポイントは大きく3つ。第一に、こうした生命に関わるようなハイテク商品が背負うことになる旧来とは少し異なるようにみえる倫理的問題。確かに、iphoneやlexusもまた製造者責任的なものは背負うであろうし、販売終了後、部品保管期間終了後も、ユーザーが残り続けるであろうことは想像に難くありません。けれども、AIBOのような心情を引き起こすのかどうかといわれると、ちょっとよくわからない。技術と倫理というテーマを考えれば、一つのトピックに違いない。(倫理というと、どちらかというと広告であったり、エコ系の話を想像しがちなのですが、たぶん、技術の問題を考えた方が広がりがある)。

第二に、ユーザー側の心情は、なお考察に値する。機械に感情移入するとはどういうことなのか。さらにこの問題は、企業側のマーケティング施策にも影響を及ぼします。AIBOが登場した当時、日本ではある程度売れたものの、アメリカでは必ずしもヒットしませんでした。そこでソニーは、商品のリ・ポジショニングを考えます。この際の議論のテーマは、一つには、機械に感情移入する日本人という性格であり、それとは異なるアメリカ人にもAIBOは受け入れられるのかどうか、ということが問題になりました。さらにこの問題は、そもそも、なぜSONYはAIBOなるものを開発したのか、というより上位の戦略にも関わることになります。このあたりはハーバードのケーススタディで議論されるハイテク・マーケティングの定番。

Sony AIBO: The World’s First Entertainment Robot

そして最後に第三として、そうしたユーザーの心情に対応し、新しいサービスが生まれているという現実。例えば、Abandoned brandの事例として良く知られるApple Newtonの場合、ユーザーによる再開発・再販売の希望はかなえられないまま、結局ユーザーの自発的な開発行動にとどまりました。それ自体、確かにユーザー・イノベーションであったり、ユーザー・コミュニティであったともいえますが、今回の場合はそれとも少し異なります。ハイテク=ユーザーにはその原理がわかりずらく、同時に、倫理的な問題に関わる?からというべきなのか、あるいは、もう少し別の説明の仕方ができるのか。

もう少し考えられそうな気もしますが、ひとまず思いついたところまで。アマゾンでマーケティング倫理やハイテク・マーケティングで検索してみたのですが、日本語の本ないんですかね。。。


クリスマスの次に来るのは?

クリスマスも終わり、次に来るイベントは新年。。かと思いきや、それは日本的であって、どうもカナダはそうではないようです。欧米諸国は新年をそれほど祝わないとは聞いていましたが、まあ確かにそうなのかもと思う今日この頃です。われわれとしては鏡餅を買って年賀状を書いておかねばですとか、正月三箇日は自宅でゆっくりという感じもあるのですが、まあ普通に仕事が始まります。お正月に関連しまして、備忘録がてら2点。

1。Happy new year!

日本では年賀状にHappy new yearと書いたりします。訳すと「あけましておめでとう!」という感じです。お正月に挨拶回りするさいには明けましておめでとうございますと言います。一方で、カナダでいつHappy new yearと言うかというと、クリスマスが終わってからです。新年が来る前に使う。日本での使い方からすると変な感じがしますが、
たぶん、日本語に訳すると、「良い新年を」という感じだろうと思います。

だいたい英語圏では、話の最後に「Have a nice day(良い一日を)」と言ったりするわけなので、Happy new yearも頭にHave aとあると考えたらよさそうです。ちなみに、クリスマス前は「Happy holidays!」でしたので同じ感じかと。「Merry X’mas!」も使いますが、近年では、他宗教に配慮して公式には使われなくなってきているそうです(このあたりは日本では考えたこともなかったですね。。。さすが。)

というわけで、新年になって以降も、Happy new yearというのかどうかは興味深いところです。
→1月2日にあった人にHappy new year!と言われたので、あけましておめでとうという意味もあることがわかりました。よかった(笑

2。で、クリスマスの後に来るイベントは何か?

お正月ではないとすると、次のイベントは何か。いろいろあるのでしょうけれど、カナダを代表する100円ショップ「Dollarama」の店頭をみると、次に来るイベントがわかります。「Dollarama」は主要イベントに合わせて、店頭の品揃えをびっくりするくらい大きく変えます(笑 10月はハロウィン、12月はクリスマス、そして1月の新年は飛び越して・・・

バレンタイン・デーでした。先日までずらっと並んでいたクリスマスグッズは一掃され、年内にすべてはバレンタイン仕様に。グリーティングカードも、新年のものも少しはありますが(ちなみに、冒頭のHappy new yearバンドもDollaramaのもの)、すでにバレンタイン一色。

こういう違いを調べるのも面白そうです。

絵文字のunicode化 

先日、絵文字の話を書きました。このところ興味を持っているわけですが、日本の市場展開とは別に、このところ絵文字のグローバル化が進展してきたように思います。その象徴的な出来事が、絵文字の2009年のunicode6.0への搭載です。この出来事は、Wikipediaをみると、GoolgeとAppleによって主導されたとあります。そのことは知っていたのですが、個人的に、どうしてそうなったのか、なぜ彼らがそうしたのかを知りたいと思っていました。

ピンポイントの記事を見つけました。
特集 : 絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」

非常に長文な記事ですが、とても印象深く、個人的に知りたいと思っていたことのいくつかが書かれていました。ざっくりポイントだけ取り出すとこんな感じかと思います。

1.絵文字のunicode登録は、実は、そんなにすんなりいったわけではなかった。

2.Googleたちは日本の絵文字を基本的にそのまま登録しようとしたのだが、その文化依存性がネックとなり、ドイツ・アイルランドから強い反対をうけた。

3.会議の中で調整がはいり、折衷案的な形で絵文字が登録されるに至った。

 

あわせて、個人的に知りたかったのは、どうしてGoogle(やApple)が、そんなことをしようとしたのかということでした。この点については僕の解釈も含みますが、次のような感じなのかなと思います。

1.2000年代中頃、Googleは携帯キャリアとの包括契約を進めていた。日本では、KDDIが最初であった。

2.Googleの目的は、携帯市場に検索技術を組み入れることであった(←ここがちょっとはっきりしないけれど、ようするにそういうことかなと)。

3.当時の絵文字はキャリア依存的であり、国内の統合基準は複雑だった。こうした絵文字は、検索にうまくひっかからない。そこでGoogleは、これらをコード化して検索できるようにしまおうと考えた。

4.コード化に際して、日本の独自なものがそのまま議題に上がったのは、適当にやったからではなく、今現在ネット上に存在するが検索できないものをすべて検索できるようにコードをふるということが目的だったからである。

5.しかし結果的に、他地域からのリアクションは、コード=検索可能という視点ではなく、コード=統一・整理・ユニバーサルという視点から行われ(unicodeは、もともととそういう目的でなされていたはず)、いろいろ調整が必要になった。

こうした展開は、マーケティング的にもいくつかの示唆を含みます。一つは、デファクトスタンダードを作るということの意味や難しさについて。デファクト競争は、しばしば産業形成の要になると言われています。古くはVHSとベータ、先般ならばブルーレイとHD-DVDなどがそうでしょう。これに関連して、日本のキャリアがデファクトを作り損ねたといこともいえるかもしれません。


ただ個人的に興味があるのは、そういうことではなく、、、unicode化されてしまうと、それ自体が収益を生むデザインではなくなるだろうということではあります。デコメールやスタンプを考えたとき、これらが標準コード化されると、当然そこに課金はできなくなる。Googleは検索、Appleは端末で利益を上げるからともかくとして、日本の企業にとっては、どうだったのかなと思ったりした次第でした。このあたり、もう少し知りたいところではあります。

アドベント・カレンダー

クリスマスに向けて、一日一個チョコレート。advent calendarとかcountdown calenarと言うそうです。カレンダーとお菓子や玩具が組み合わされていて、一日一個ずつ子どもが開けて楽しむカレンダー式お菓子です。日本にもあるのかもしれませんが、始めて見ました。

クリスマスシーズンはやはり特別のようで、アドベント・カレンダーがたくさん売られています(というか、クリスマス限定みたいです。)2、3ドルの安い既成品から、手作りのもの、おもちゃ、さらには高級化粧品のものもあり、本当に多様です。

アドベント・カレンダーwiki

Wikipediaによれば、一応宗教的な理由のもとで始められた?ようでもあります。今となっては、クリスマスに向けて気持ちを高める商品という感じです。

これ、クリスマスに限らずいろいろと展開可能なのでは等と思ったり。以前、Sカレの企画の一つとして、ゼミ生が考えたプランに似たようなものがあったことを思い出しました。確かそれは、インスタントコーヒーのパックを30個分、それぞれ違うものをカレンダー形式に入れて作ったらどうかという案だった気がします。元アイデアは、年配の方々が薬をカレンダー形式にして飲み忘れを防いでいるということだったような。あのとき、このカレンダーの存在を知っていれば、もっと発展の可能性があったのかもと思いました。

いろいろなところにアイデアのきっかけはあるものです。カレンダーと何かを組み合わせるというのは、結構いけるような、気がします。